南無阿弥便り  第32号    1999.11.15  



────仏教の根本は、仏教のいのちは、大悲にあると。

      そういうことを明らかにしてきたのが、     

      実は南無阿弥陀仏の仏教でございます。

                               宗 正元師  



     無量寿  (昨年度1998年報恩講ご法話より)


 ですからその、南無阿弥陀仏が仏様だと。実はその南無阿弥陀仏というお念仏は、ただ阿弥陀仏という仏様に南無したてまつると、そういうことではなくてですね、南無がそのまま、南無がついたままですね、南無阿弥陀仏が実は私どもの上に名告り出てくださる、姿を現してくださる、仏様の姿なんだと。こういうことを一つ教えてくださるわけです。

 ふつうはあの、お念仏と言いますとどうしてもですね、何か仏様に向かってお祈りをする、あるいは何かお願いをするですね、そういう時にまず「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と。何かお祈りをするそうい気持ちをこめてですね、お念仏を称えているように考えますけども、また事実そういう風な考えで、お念仏を称えるということも、実はその仏教の行の中にはですね、そういうことも一つあるわけです。お念仏を「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と朝から晩まで、とにかくお念仏を称えてですね、ま、ここは周りを回るというようなことはできませんけど、昔の古いお堂ですと、御本尊の周りを歩いて回ることができるようになっています。そういう御本尊の周りを、お念仏を称えてぐるぐる回る。そういうことによって、自分の心を静かに統一していくというような、そういうような意味でお念仏が称えられる場合もあるし、それから「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」とお念仏を称えることによって、何か自分の身にいい結果がもたらされてくることを求める、いろいろな苦しみが癒されるような。

 あるいはあの、これは私がお預かりしているお寺が九州の大分県の国東半島というですね、ほんとうに辺鄙なところなんですが、よく年寄りの人たちがですね、半島ですから山といっても丘みたいな山がたくさんあってですね、ま、私のお預かりしているお寺は阿弥陀寺というお寺ですが、十二月になりますと報恩講をこのようにしてお勤めしますと、皆さんが御参りしてくださるんですが、山越えして、山というのはその丘みたいな山ですけどね。山越えして御参りしてくださる。帰りは夜遅くなりますしですね、お念仏を称えて帰るとですね、狐にだまされないからいい、とか言ってですね、「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と、お念仏を称えると恐ろしい気持ちとか寂しい気持ちがですね、いくらかまぎらわされるというかですね、何かお念仏を頼りにして、お念仏を称えて帰ったおかげで狐にもだまされなかったとかですね、そういう風に年寄りの人たちが言われますけども。

 そういうような意味でですね、災難がこの身にふりかからないようにとか、恐ろしい目に遇わないようにお念仏を称えると。そういう風にして称えられてきたり、先ほど申しましたように精神を統一する、何か修行していくについてですね、自分の精神を統一するという意味でお念仏を称えると。そういうお念仏の称え方というものが一つあるわけなんですが、そういうことの中でですね、そういう風にお念仏が称えられてきた。そのお念仏をですね、実は私どもの中に、私どもの中から生まれ、私どもの中に培われてきたひとつの魂がですね、「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と言い顕わされておるんだと。

 ま、お念仏がいつから称えられるにようになったかということは、実は分からないわけです。少なくとも、お釈迦様よりも前。じゃ何時頃かっていうことになると、それは分からないですね。必ずしもそういったことがいろいろな記録に残るわけじゃありませんし、人々の中で「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」とお念仏を称えて、それこそ何か恐ろしいような夜道を歩くときにですね、お念仏を称えて歩いたということもあるでしょうし、辛い思いの中でお念仏を称えて生きてきたということもあるだろうし、悲しい思いを懐いてですね、お念仏を称えて亡くなっていかれる人とお別れするというようなこともあっただろうし、とにかくいろいろな姿形をとりながら人々の中に、特に庶民の中にですね、念仏が称えられてきた。そしてその庶民の中に培われてきたって言いますかね、その、そこにその、何かいろんなお祈りをしておる風に見えますけれども、実はそういう形で庶民の中に培われてきた魂というものが、「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と念仏になって称えられておると。そういうことをですね、実は明らかにしてくださった人が、日本では法然上人と、ま、今日は報恩講で親鸞聖人の御正忌を報恩講と言いますが、そういう親鸞聖人が亡くなられたことを切っ掛けにして親鸞聖人の御恩を報ずるというような意味で、こういう報恩講という行事が勤められるようになってきたわけですけども、その親鸞聖人というのは、その「ナンマンダブツ」がただ私どものお祈りの言葉ではなくてですね、実は私どもの中に育ってきた、私どもの中に培われてきたですね、ひとつの魂が「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と名告り出ておると。今日あの、親鸞聖人がお作りになった唄、『正信偈』というですね、唄を皆さん方といっしょにお勤めしたわけですが。ま、歌ったわけですね。昔の歌い方でですね、今の音楽とちがいますからですね、歌ったわけですが。その一番最初に「帰命無量寿如来」と、「南無不可思議光」と、こういう二つの言葉で実は言い顕されておるのが、「ナンマンダブツ」と、「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と私どもの中に名告りでてくる、その魂をですね、言い顕してある言葉です。