南無阿弥便り  N0.33    2000.3.15


この号の表紙

仏伝マンガのためのスケッチ───   ヒマラヤのヨーガ行者







知らんからのんきに考えとるけどね、

実は自己の履歴書を掲げて

歩いとるようなもんだ、

面というものは






    

我というものは、何かあらゆる経験を統一しとるもんでしょう、もっとるもんでしょう。経験というのは我がする経験なんだ。 

ところがね、我が見たり、聞いたりするという、我から生まれてくるもの、我に於いて生まれてくるものが経験ですけどね。ところが経験するというとね、その経験が我を生んでくる。我が経験を生むにもかかわらずね。私から生まれた経験が私を生んでくるね。

あんた方でもそうですわ。大学出た頃には、その中からどんなえらい者が出てくるかわからんね。ところが何十年か学校の先生をやっとると、如何にも起居動作すべてが先生らしくなっとる。又ながい間坊さんやっとると、初めから坊主になるように生まれてきとるような顔つきから、起居動作までそうなってくる。

顔つきでもなんでも、それは経験によって作られたんだ。私は何であるかということを語るのは、私に成るまでの私の作った経験が、私が何であるかということを語ってくれる。

私がこうなったのはどうかというと、神が作ったんじゃない。こう成るように私が経験してきた経験の蓄積の結果でしょう。

この顔もね、一人ひとりちがうというのも、そこだ。それが隠せんというのが面白いわね。顔に出とるんだから。

僕は何時も云うけどね、知らんからのんきに考えとるけどね、実は自己の履歴書を掲げて歩いとるようなもんだ。面というものはそういうもんだ。

─────安田理深師

『唯識三十頌聴記』(福井相応学舎)より




仏教では、無我ということを言います。無我の真理にめざめることが「さとり」だとも言われます。

しかしそれは、私が存在しない、ということではないでしょう。たえず移り変わっていく私の心を、「私」として執着する、その執着が苦しみ生むのだ。だから、しがみついても仕方のない、自分の心に執着してはならない。どこまでも自分にとらわれてやまない、「私」への執着を離れよ、という教えでしょう。いうまでもなく、離れよといわれても離れることができないのが、私たち凡夫の心です。

ところで私たちは、一方では、しがみついても仕方のない「私」にしがみつきながら、もう一方では、ほんとうの意味で責任を負うべき「私」を忘れている。

私が何かをする。仕事をする。喧嘩をする。誰かにやさしくする。私の行為は、すべて私の経験となって、「私」を作る。私が何かを学ぶ。人を思いやる。人を憎む。私が私の心に思ったこともまた経験となって、「私」をつくる。こうして私が自分で生み出し、作ってきた経験の蓄積が、顔となって表にあらわれている。

生きるということは、生きている自分に責任を負うことでしょう。自分の行い、自分の思いに責任をもつ。私の顔は、私の人生に責任を負ってきた顔かな?