南無阿弥便り NO.34 2000.7.15
この号の表紙
仏伝マンガのためのスケッチ───お釈迦さまの父・スッドーダナ(浄飯)王
王の名はスッドーダナ(浄飯王)。
釈迦族十城の主として善政を行っていました。
御言葉(みことば)はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある
── 新約聖書(ローマ書 10・5−13)
キリスト教との対話
先日、キリスト教の友人から久しぶりの電話がありました。何でも、ドイツの人(*スペインの人でした) と結婚したお姉さんの娘さん(つまり姪ごさん)が、ドイツ(*アメリカ在住でした)から日本にやってきて、
日本のいろいろな人と話がしたいというのです。とくにキリスト教が日本でどう受けとめられているかを知りたいということでした。姪ごさんを連れて高明寺に来るというので、あらためて、キリスト教のことばに触れてみようとおもいました。
この友人とは、湾岸戦争の時に共に『祈りの集い』をもち、私は教会の十字架の前でお経をあげさせていただいたことがあります。友人は、エキュメニカル運動というキリスト教の中での超教派活動にかかわっている人で、それ以来、聖書のことばを記したお便りをいただくようになりました。フランスを拠点とする「テゼ」というエキュメニカル共同体で用いられている、祈りのことばを載せたお便りを見直していると、そこにたくさんの、心に届く御言葉があることに驚かされます。
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」
これは私たち浄土の仏教に縁をもつ者が、お念仏の心として常にお教えいただいている言葉ではないでしょうか。
近代の代表的な念仏者である曽我量深(そがりょうじん)という先生は、「仏様とはどんな人か?仏様は、われは南無阿弥陀仏と申すものであると名のっておいでになります。その仏様はどこに居られるか?われを南無阿弥陀仏と念じ称える人の直前においでになります」
と言われています。
また甲斐和里子(かい わりこ)という方は、
「御仏(みほとけ)をよぶわがこゑは御仏のわれをよびます御声(みこえ)なりけり」「御仏の御名(みな)をとなふるわが声はわが声ながらたふとかりけり」と詠(うた)われました。
『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』という浄土の経典には、こう説かれています。
「汝いま知れりやいなや、阿弥陀仏、此(ここ)を去りたまうこと遠からず」
仏さまは遠くに居られるのではない。わたしたちの近くに、直前にいらっしゃるというのです。
南無阿弥陀仏は、御言葉となった仏さまです。御言葉が、御名が仏さまなのです。
仏さまとは、いのちの呼び声です。
南無阿弥陀仏とは、いのちから呼び掛けてくる、いのちの呼び声であり、そして、いのちの声に呼び返された、いのちの応答です。
いのちの呼び声は、実は、どんな人の中にも流れていて、どんな人にも呼び掛けているのでしょう。気がつけば、遠くにあるのではない。それはわたしたちにもっとも近く、私の内から、私を超えて呼び掛けてくる、いのちそれ自身の声なのでしょう。その声を聞いた人々が、仏教の経典や、聖書として、その声を言葉として書き付けて下さったのでしょう。「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」(旧約聖書「詩篇」三六)「あなた」は、私たちの内から、私たちを超えて呼び掛けてくる者──キリスト教徒にも仏教徒にも、いのちあるもの全てに呼び掛けてくる、いのちの呼び声それ自身ではないでしょうか?