今月の表紙 民の祈り
生きるということは
ただ一度の人生を愛することで
ありましょう
それまでは、私は生まれたところが嫌だと思っていました。なんで父親は僧侶になんかなったんだと思っていました。友達は、世間で立派な者になっていける道をみんな歩いている。なのに私はどうして田んぼの中に帰っていかなければならないのか、消防ポンプの倉庫(が貧乏僧侶の家でした)に帰らなければならないのかと悩んだのです。世間で成功といわれることは、私は全部ダメだったのです。だから、もう生きてゆくのは嫌だと思っていました。
だけど、先生は都合が善いとか、都合が悪いとか、自分の都合なんか全然いわないで事実そのものを生きているのです。だから、どんなことが起こっても愚痴をいわないし、どんなことが起こっても「ナマンダブ、ナマンダブ」と念仏を称えて、全部自分の世界として生きておられました。それを見て私は、ものすごいショックでした。私は、自分で自分の善いところと悪いところとを分けて、善いところは延ばして、悪いところは捨てようというそんな生き方をしてきました。(中略)
善いところも悪いところも全部自分自身じゃないか、全部仏様にいただいたものじゃないか。……全部丸ごと自分自身なんだ。丸ごと自分を愛せる人間になれというふうに、私たちの自我のいのちのもっとも深いところから、南無阿弥陀仏のいのちがはたらきかけて下さっている。……だから、「もう自分の足で歩けない、死にたい」と思った時でも、南無阿弥陀仏だけは、私たちを見捨てないで丸ごと自分自身だと言え。そして、そのまんまで生きてゆけ、こういって応援してくれている。……それから、私は劣等感から開放されて元気になったのです。
延塚知道(のぶづかともみち)『共に在ること─バラバラでいっしょ』より
宗教というのは、私の宗(むね)とする教えに生きることであります。生きるということは、ただ一度の人生を愛することでありましょう。自らの人生を愛することなく生きることはあり得ません。
生きているから愛するのではありません。人生を愛するという相だけが生きているということであります。
自分の人生を愛することのない人には、本当の意味で、生きることの経験はないのでありましょう。たとえそれがどのような怯弱(こにゃく)の相をとろうとも、自分の人生を精一杯に愛する人を私は尊敬します。それに反して、それが、どれ程、英雄的な行動であっても、自分の人生を愛する心に裏打ちされていないようなものならば、私は信用できませんし、尊敬もできません。
藤元正樹(ふじもとまさき)『人間この尊きもの』より
さまざまな先生方が、人生を愛せ、自分自身として生きよ、と教えて下さっています。
なかなか如来の声が聞こえてこない私に、よき人々が、手をかえ品をかえして、呼び掛けてくださいます。
安田理深先生は、自重(じちょう)せよ」と仰せられました。居直ることでも、自惚(うぬぼ)れることでもない。人間は、自分自身を尊重すべきものである。自分だけを尊ぶことではない。威張るのでも卑屈になるのでもない。
「自重せよ」人間は自重すべきものであると。