人間の悲しみは、底知れず深いから
念仏の声は、
限りなく優しい
───東 義方 遺稿詩集『 聞楽 もんぎょう 』より
この号の表紙
仏伝マンガのためのスケッチ──「兜率天(とそつてん)の章」
お釈迦さまは、シャカ族の王子シッダールタとして生まれる前は、迦葉仏(かしょうぶつ)のもとで仏道の修行をしていました。命終わって兜率天に昇り、善慧(ぜんね)─または護明(ごみょう)─菩薩と呼ばれました。善慧菩薩は、四千年のあいだ兜率天の衆生(天人)のために、仏の教えを説かれました。天寿がつきた時、善慧菩薩は、前世からの誓願に従って、兜率天より降りて人間に生まれることを望みます。人間の世界は苦しみが多く、五濁悪世といわれるように、一度天に昇った者は、二度と人間には生まれたくないものなのです。けれども善慧菩薩は、はるかな昔、菩薩としての修行を積んでおられたときに、自分は必ず、いつか濁り多く悪重い世界に生まれて悟りをひらき、その国の苦しむ人々を救いたいと誓ったのでした。その本行願に従って兜率天から下りようとする時、兜率の天人たちは皆、善慧菩薩との別れを悲しみます。その中に二人の天女がいて、自分たちもまた、善慧菩薩のあとを追って、人間の世界に生まれようと決意します。

安田 われわれが生きているということは、われわれが考える以前にがわれわれを生かしているし、考えてもわからないほど、深い意義をもっている。あなたがあなたとして生まれてきたということは、考えてもわからない。生まれようとして生まれてきたのではない。
兵頭 そうです。
安田 生まれてあるということは考えを超えている。現に生きているが、考えてもわからない。けれども現実であり、そういうものを宿業という。宿業というものが本当の現実を成り立たしているのです。
兵頭 現実というものも、よそから借りてきたように思いました。
安田 自身は現にこれ罪悪生死の凡夫という現身です。宿業の身というところに現身がある。考えたものでないから確かです。そこへ帰れというのです。
兵頭 それが凡夫に帰るということですか。
安田 凡夫に帰るということが本願のはたらく場所です。宿業の身がないと、念仏しても仏を念ずる場所がない。われわれの身をささえている如来です。如来は向こうにあるものではない。(略)自分の身をささえているものが本願です。宿業の身で本願を念ずる。われわれが仏を念ずるということが、われわれに仏が現れた証です。念ずるということが、われわれの上に仏の現れている証です。そういうことがなくて、念ずることはできないはずです。宿業の身が念ずる場所です。宿業の身が宿業の身としてある。宿業の身ということが、仏があなたに現れていることです。それが南無阿弥陀仏です。
兵頭 お念仏を称えるということですか。
安田 念仏というのは、忘れていた仏の本願を思い起こさせる。妄想が本願を忘れさせる。(しかし、忘れていた我々が)宿業の身に帰るということではじめてそこに、自分の底に流れていた本願を思い起こす。忘れていた本願を、思い起こす心というものは本願の現れで、それは我執とは違う。我執であれば本願を利用する。あなたの助かりたいというのは欲です。
兵頭 自分で本願を頂いて材料にしようという。
安田 だから、その往生したいという心も欲です。それを捨てなければならない。本願を思う心は本願です。われわれに本願をたのむ心が起きてみれば、もう本願の方がわれわれを念じている。本願がわれわれを念ずる心が徹底して、われわれが本願を念ずることができる。そして本願を念ずることができれば、本願を念ずるのは何処で念ずるのかといえば、妄想で念ずるのではない。宿業の身に念ずる。広大なる本願を念ずることができれば、どんな境遇でも宿業に安んずることができ、宿業の身に満足できる。その満足ということが広大ということです。広大な仏法というのは満足な心です。満足した心ほど広大なものはない。現在に満足する。
兵頭 宿業の身に満足できないから。
安田 宿業の身で本願を念ずれば、満足できる。宿業を嫌って、仏とか浄土とか往生とかということを描くし、描いたものは今いったように皆理屈です。あなたは、描いたものと描いたものとを関係させようとしていた。それが信仰の形をとった我執です。描いたもので腹はふくれない。助かるとか助からないとかいうことを捨てて、宿業の身に帰る。帰ればそこに本願がはたらく。念仏できるということが証拠です。本願にふれた証拠です。(略)念仏して浄土に生まれるのではない。念仏できたということが往生した証拠です。あるいは、往生は要らないと言ってもよいのです。(略)それゆえに宿業の身に、宿業という現在に安んずることができる。未来往生ということを待たない。死んでから浄土へ往くということを待つ必要がない。口から出るのが念仏ではない。自分の生きている全体が念仏です。(略)
安田 宿業というものは流転しているものだから、そこに深い本願のいたみがある。本願からいえば、あなたの宿業をいたむ大悲というものがある。宿業に底がないから如来の本願の心にも底がない。宿業の深さと本願の深さとは同じことです。自分全体が本願の痛み、大悲願です。
───安田理深 やすだ りじん 『信仰についての対話II』 草光舎より
聞けば頭が下がる。安田先生のお言葉は、一語一語が、私自身のためになされた如来の説法です。こうして書き写しているだけで、本願の呼び声が、愚かなこの身に灑(そそが)れていることを知らされます。如来は、底知れぬ人間の悲しみを背負って、底知れぬ闇の底から、この私を叱る、生きてあることの獅子吼 (ししく)でした。


