『オウム』を生んだ<われら>の時代

1997年      原稿


はじめに

『オウムが突きつけるもの』という最初の文章を『通信』に載せてから、この問いを問いとしつづなければならないと思いながら、書きあぐね、書きあぐねて、とうとう一年半がたってしまいました。それでもどうやら、この正月(一九九七年・平成九年)を迎えて、ようやく短い論文の前半部分だけを脱稿しました。評論家の吉本隆明氏が親鸞聖人に託して発言している「造悪論」───親鸞は「善人が往生するなら悪人はなおさら往生する」と言っているのだから、無差別殺戮をした大悪人の麻原こそは浄土にもっとも近い存在なのだ、という乱暴な意見───に対する批判をしたもので、『真宗とオウム』という題で今後書きついでいくはずの文章の、やっと糸口がついたという気がしています。いささか専門的な内容の文章でもあるので、この『通信』ではなく別の場に発表したほうがよいのだろうと思いますが、情況によっては、この『通信』で紹介することもあるかも知れません。

とにかくそれがきっかけになって、書きあぐねていた『オウム』論を、今年はすこしずつ形にしていくことができそうな気がしています。この『通信』に載せる以上、できるだけやさしい表現を心がけたいと思いますが、『オウム』が突きつけているのは、宗教の根源的課題であり、その根本的な存在理由なのです。そういう課題に向き合う以上、基礎的な、厳密な思索が必要とされるのはいうまでもありません。布教活動という次元で考えるならば、難しいことなどなるべくいわずに、平易に、平易に語っていくのがいいのでしょうが、今私たちが直面しているのは、そういう布教活動が拠って立っている基盤、宗教それ自体がほんとうに人間にとって大事な、不可欠なことなのかという疑問、またもしどうしても大事なものだと言えるならば、それはどういう点において、どういう在り方においてなのか、ということなのでしょう。信仰の、信心の根拠が問われているのです。そうである限り、たんに「平易」な表現だけで、この課題に向き合うことはできません。吉本氏のようなとんでもない誤解が、戦後を代表する思想家とさえ言われることのある人物の口から、主張されてしまう時代なのです。

この『通信』で私がめざしているのは、ほんとうの意味での平易なやさしい、しかも深い信心の言葉が、現代という時代に新たに生み出されていくための、準備作業です。それはおのずから基礎的な、忍耐強い歩みを必要とします。難しいことばも、難しい思索も、やはりとても大事なのです。とくに疑い深く頭でっかちな現代人である私たちには、それは決しておろそかにできない、不可欠な作業だと思うのです。ですから、この『通信』に多少難しいところがあっても、大目に見ていただけるとありがたいのです。無理に読み通す必要など全然ありません。ただ、やがていつか現代という渇いた河の水底を走る一筋の、やさしく深いことばの流れが湧きだすことを願って、「坊さんも苦労しちょるんだな」と思っていただけると、嬉しいと思います。




* 『真宗とオウム』『造悪論について』など、ホTムページへの転載準備中です。