
今回は念仏ということについて、私なりにいただいていることをお話ししてみたいと思います。
念仏といいますと、ナムアミダブツですね。
もともとは、念仏というのは、ナムアミダブツを称(とな)えるということとは、
かならずしも限りませんでした。
それを、念仏は南無阿弥陀仏を称えることなんだと、見出してきた歴史があるんです。
仏教の歩みです。
南無阿弥陀仏は、まじないの言葉ではありません。
それは、あらゆるいのちの言葉です。いのちのいちばん深い源から湧き出てくる言葉。
ナムアミダブツの「ナム(南無)」というのは、「帰ってこい」という
仏さまからの呼びかけです。あらゆるいのちが平等であるような、いのちの源へ帰れと、
わたしたち一人ひとりのいのちの、その奥底から呼びかけてくる声、それが「ナム」。
アミダブツというのは、今いのちの源といいましたけれども、
そのいのちの源につけられた名前です。
いのちといってもどういう命なのか。苦悩する命です。苦しみ、悲しみ、嘆くいのち。
それが私たちといういのちですね。
さまざまな、誰にも語ることのできないような、苦しみや悲しみや痛みが、ありますね。
このいのちを、この苦悩する一切の衆生を、捨てない。
生きとし生ける私たちを、誓って必ず救おう、
わたしたちの側からいえば、あらゆるいのちと共に、救われていこうという、その願い。
仏さまの願いです。
その願いが、アミダ仏というみ仏の名として、言葉に現れ出た。
アミダ仏という言葉によって、この願いが言い当てられた。
それが、ナムアミダブツ。なんまんだぶ。
1989・4・15