インド的混沌と混               

  ノ祈りの集い祈               三木  悟 

   *画面の見ずらい人はここをクリック         





              
 インド的混沌と祈りの集い 1991.10.  

                                 

                十月の十六日、キリスト教の教会に行ってきました。

               聖マーガレット教会という聖公会の教会です。この三月に、

               湾岸戦争を機縁として、共に祈る集いをもったのが最初で、

               今回はその第二回目です。第一回目のあと、教会の牧師

               さんが、一回だけで終わるのでは意味がない、つづけること

               が大事だと言ってくれたそうで、そのお言葉が励みになって

               また開かせていただいたわけです。

                  まず最初に、聖堂の十字架の前で伽陀(前請弥陀)をお

               称えしました。その次はテゼというキリスト教の短い唄、

               聖書のコトバ

                 ──「まことに汝らに告ぐ、もし汝らひるがえりて

                   おさな児のごとくならずば、天国に入るを得じ」

                               (『マタイ伝』一八・一三)───

                そして沈黙……。そのあと、前回すばらしい音色を聞かせ






























               てくれたジョンという確かイギリス人の青年が琵琶を弾

               いてくれる予定だったのですが、今回は急用ができてとりや

              め。それから念仏和讃(三首引き)、

              またテゼ、また沈黙という具合ですすみました。

              聖堂の反響というのはすごいものですね。私が今いるお寺の本

              堂も多少は反響しますが、とてもその比ではありません。ウワ〜

              ンウワ〜ンと共鳴して、気持ちがよくなってしまいます。
                 
              最後に、『雅歌』という、聖書の中に独立して摂められている

              愛の詩をもとにして作った歌をみんなで唄って、


              終わりました。私はこの詩を、原民喜という、広島の原爆体

              験を、生涯の根源的問いとして小説に刻み込んで自死して行っ

              た作家の、『夏の花』という作品ではじめて知りました。その後

              大江健三郎さんの書かれたものの中にも見つけましたが、や

              はり原さんの『夏の花』のエピグラムに引かれていた印象が

              強く、その後もの書きになるつもりでシコシコとつづけていた

              習作の中に引用したり、真言系の寺の教報誌を編集していた
































              時に、見開きページの大見出しに使わせてもらったり、ずっと

              心にかかっていたのでした。それがたまたま、インド音楽の

              ラーガ・バイラヴィという曲を聞きながら、ああそうだ、この

              ラーガで曲を作ろうとおもったときに、(「ラーガ」というのは、

              特定の音階と時刻と情感をもった旋律の流れで、リズムを

              構成する「ターラ」とともにインド音楽の基本理念になって

              いるものです。)ふと、浮かんできたのでした。(ついでに

              言っておくと、バイラヴィというのはバイラブ神の配偶の女神

              のことで、バイラブはヒンドゥー教の三大神の一であるシバ神

              の別名です。で、このシバ神が日本には不動明王として

              伝えられています。そしてさらに、シバ神の配偶であるカーリー

              やマハー・デーヴィーやパールヴァティーと呼ばれる女神は、さ

              まざまな混合と変化をたどって、観世音菩薩との関係をもって

              います。これらについては諸々の説がありますし、異論も多く

              出てくるわけですが、まぁそれについては、いずれ機会がありま

              したら詳しく取り上げてみたいと思います。)


































                 とまれ、そんなわけで、聖書の詩をもとに作詩し、インドの

              音楽理念に(いちおうは)もとづいて作曲し、それを坊さんの

              衣を着けて、シタールというインドの弦楽器をたどたどしい手

              つきで弾きながら、教会の聖堂でみんなで唄ったわけであり

              ます。参加者には、キリスト教の方もおられれば、何の宗派

              にも属しておられない方、教団としてのキリスト教教会に疑問

              を持っておられる方、わけもわからずダマされて来られた方、

              また最近とみにマスコミをにぎわしている新興教団に入信し

              ておられて、現在はまた自分なりの模索をしておられるとい

              う方、それにわたしのような坊主もいるという次第。これこそは

              インド的混沌!「何がなんだかわからなかった」とは、わけも

              わからずダマされて連れてこられた方の言。さもありなんめれ…。


              この拙文を読んでくださられている方々もさぞや同様の感想

              でありましょう。

































              このインド的混沌の出現にかなりの責任を負っている私として

             は、なんらかの説明なり、弁明なり、主張なりをしなければいけ

             ないわけですが、あまりしゃちこばってものを言ってもつまらない

             ので、ゆるりゆるりと、これもまたインド的悠久に身を浸しながら、

             おのずから語らしめらるるままに語るる時の流るるをたのしみた

             い……とおもうわけです。

              当日みんなで唄ったインド風『雅歌』は、こういう歌詞です。

             

                     
雅歌

              1. (a)┌わが愛するものたちよ  請ういそぎはしれよ

                     └香わしき山やまの    峰や谷をこえて

            
                (b)  この星の空や水や  森やこの大地の

                  かけがえのないこの輝きを  きみたちは守れよ


              (間奏)タララー・・タララー・・タララー・・タララー・・

                タララー・・タララー・・タララー・・タララリタリラー































              2. (a)くりかえし


                  (b)  さわやかな風がふく  みどりなす野原で

                  鳥や虫たちや花や木たちと  きみたちは遊べよ

            
               3.(a)くりかえし

                     (b)  このひろい海原の  胸に鳴る潮の音

                 いつまでも強く耳をすませて  きみたちは聞いてよ                                                                                      

                                 (間奏)

               

                4. (a)くりかえし

                      (b)はるばると渦巻ける  かぎりない銀河の

                 ひとつひとつの瞬くひかり  きみたちは浴びてよ


                                (間奏) 





































               5. (a)くりかえし

                   (b)わが愛するきみたちよ  きみたちのいのちの

                  そのたくましさその美しさ  きみたちは守れよ

              (間奏)   

                         ・・わが愛するものた−ち−よ−


                 というわけです。途中で、聖堂の下の階で別の集まりをして

              いた方々が二三人、「なにやらおかしげな音が聞こえるわい。

              ちょっと行ってみようか」という感じで、はいって来てくださいま

              した。これは嬉しいことでした。一人去り二人去りの、まがりな

              りにも反対ですから…。

               階下の部屋に移って、お茶をいただきながら、自己紹介と感

              想などを話し合いました。浦和の教会で活動しておられる福沢

              さんのお友だちで、ただ待ち合わせのつもりでいたら連れて

              こられてしまった、という竹俣さんの「宗教とか宗派とかの境

              はどうなってしまったのだろう。どういうことが行われている
































              のか分からなくて混乱してしまった。」という感想があって、

              この集いの共同の言いだしっぺである植松さんが「ぼくも、

              ただ境界をはずせばいい、というものではないと思う」と、

              引き継いでくれました。「どの宗教も道が異なるだけでたどり

              つくところは同じ、というのではなくて、それぞれの宗教の数

              千年の歴史をもった道を、それぞれが誠実に歩んでいくことこ

              そが大事なのではないか。」という要旨の発言だったとおもい

              ます。植松さんの言葉を聞くたびにいつも、わたしは、わたしが

              学んでいる浄土真宗の教えを思い起こします。何かわたしが語

              る以上に、植松さんが真宗の教えを的確に語ってくれている、

              という気がしてしまいます。真宗では七高僧の伝統というので

              すが、念仏の伝統です。念仏の信心をいただいて歩まれた

              方々の伝統を特に七人の高僧方の歩みに代表して言うわけ

              ですが、その伝統に連なる、具体的には、念仏の信心に

              生きていかれた方々のお仲間になる、ということです。



































               あっちこっちよそ見をしたり、何か他にもっと必要なんじゃ

              ないかとうろうろするのではなくて、ただ「念仏申せ」という

              教え一つをいただいていくんだ、ということを繰り返し教わる

               わけです。その教えをいただくわたしにとって、植松さんの

              発言に異論のあろうはずがありません。そこでわたしの方は

              すこし角度を変えて、こんなことを言ったとおもいます。


             「わたしたちがこういう集いをもつことの意味はとても単純なこと

              で、それは人と人とが出会う、ということだとおもう。もし宗教や

              宗派が異なることで、人と人との間に壁ができてしまうとしたら、

 
             それは困ったことではないか。表面的な部分でつきあうことは

              できても、深く出会おうとするときに、宗教が壁となって人間を

              阻んでしまうとしたら、それはおかしなことだし、困ったことだ。」








































                  宗教が邪魔にならない、壁にならない、そういう宗教

              であれば、わたしたちが宗教をもつことには意義がある。

              しかしもし、それが人と人との出会いをさまたげ、人が人

              を理解することの邪魔をするならば、そういう宗教はむしろ

              もたないほうがいいと思います。個人がそこに生きる意味

              を見出しているならばいいじゃないか、という考え方もあり

              ましょうが、人と人の出会いを小さく限定してしまう宗教は、

              たぶんその中のひとりひとりを縛りつけたり支配したりする

              側面を必ず持つのでしょう。そして現実の宗教はみな、

              多かれ少なかれ、個人に生きる意味を与える側面と、

              個人を縛る側面とを両方もっているとわたしは思います。

              
 先日NHKで、北アイルランドの宗教対立をあつかっ

              たドキュメンタリーが放映されました。北アイルランドでは、

              多数派のプロテスタントと少数派のカトリックとの間に、

              長い抗争の歴史があります。そして異なった宗派の男女


































              が結婚すると、時には命さえ奪われることもあるというよ

              うな、さまざまな迫害や困難に直面しなければならないの

              だといいます。同じ都市のなかで居住区がはっきりと区

              別され、敵対する宗派の居住区に近づけば、

              身の安全は保証されないというほどの状況なのだそうです。

                 こうしたことは、宗教が人間を縛りつけていることの、悲しむ

              べき証明でしょう。人間が自己中心的に生きる時、他者を排除

              したり、利用したり、支配したりするようにふるまわせる力を、

              仏教では我執と呼びますが、我執はたんに個人だけの持物で

              はなく、集団的な持物でもあります。それは大きくは国家や

              民族、小さくは同郷意識、「ウチの会社」意識、マイホーム意識

               などなど、わたしたちの生活のいたるところに潜んでいるも

              のです。わたしはそれを集団的我執と呼ぼうと思います。必

              ずしも人間だけではないと思いますが、蟻やハイエナや猿も

              そうでしょうが、人間もまた集団的自我をつくりだす生きもの


































              です。その集団的自我、共同体といってもいいのですが、それ

              は地縁、血縁、言語、文化を共にすることによっても生まれま

              すし、また趣味や利益を共にすることによっても、思想や信条

              を共にすることによっても生まれます。宗教の集団は、信条を

              共にする共同体といっていいのでしょう。そこには集団的自我

              が生まれると同時に、また残念ながら、集団的我執も伴って

              しまうのが現実です。

                 人類の歴史に寛容という偉大な精神を体現し、教えてくれ

              ているインドは、また極端な排他主義が登場する土地でもあ

              ります。そのインドでは今、ヒンドゥー原理主義という宗教的

              排他思想が台頭して、イスラムの人々と、殺し殺される争い

              を深めています。わたしたち人間は、まだ、個人的にも、集

              団的にも、この我執という、自他を苦しめ縛りつける力の支

              配から、解放されていないのです。



































                仏教とキリスト教の相互理解をめざす「東西霊性交流」

              の試みが、主に禅宗とカトリックの方々の間でおこなわ

              れていますが、今年の五月に開かれたその第四回目の

              シンポジウムで、ベネディクト会の修道士の方が、「固

              有の信仰が深いほど他宗教を理解できる」(*宗教新聞

               91・6・20/一面)という発言をされたそうです。これは

              植松さんの言葉と同じ主旨で、わたしも賛成です。ではな

              ぜ、固有の信仰が深くなると他の宗教を理解できるよう

             になるのでしょう。そのことを深く尋ねる必要があるのでは

              ないでしょうか。そのことを深く尋ねる時、わたしはそこ

              に、わたしたちが今回の集いで共に聞いたことば

                ───「まことに汝らに告ぐ、もし汝らひるがえりて

               おさな児のごとくならずば、天国に入るを得じ」

                               (『マタイ伝』一八・一三)

              ということばが、あらためて聞こえてくるように感じるの

































              です。おさな児は、教理も教学も儀式も知りません。お

              さな児には、キリスト教徒のお母さんも仏教徒のお父さ

              んもありません。おさな児にも自我はありますし我執もあ

              ります。しかし思想や信条による自我の形成がまだない

              ので、思想や信条による我執もまたないのです。すでに

              思想や信条の鎧を身につけてしまったわたしたちは、「お

              さな児のごとく」あることはできても、「おさな児」であるこ

              とはできません。おさな児の動物的自我は、思想や信条

              によって、人間的自我になるのでしょう。

               わたしたちの自我は、思想や信条によって確立され

              るのです。それを自己の確立といっても、主体の確立

              といっても(とりあえずは)いいのでしょう。しかしこの思

              想や信条が、固い鎧となって、独善性と排他性を身につ

              け、支配的になったり閉鎖的になったりすると、まさにこ

              の思想や信条こそが、政治的主張や宗教的信念こそが、


































              いのちといのちとの自然でやわらかな交流を妨げ、時に

              は暴力をともなう苛烈な対決を生み出してしまうのです。

                わたしたちが自我を確立しようとして苦闘する時期に、

              他者との交流を排除して、自己の内に閉じ籠もらなけれ

              ばならないことは、あります。まだ弱い自我は、他者の

              侵入によって掻き回され、惑乱させられることから自分

              をまもらなければなりません。しかしもし、他者による不

              躾な侵入という脅威がないのに、自己を閉じ込めたまま

              でいるとしたら、それは「病」といわなければならないで

              しょう。

                 さまざまな宗教や宗派が存在します。そして多くの人

              たちが、ある宗教を信じていたり、ある教団や宗派に属

              しています。そうした事情(事実と情況)の全体を、宗教

              的自我という言葉であらわすならば、わたしたちの現在の

              宗教的自我は、きびしい眼でみれば「病気」であり、

































              おだやかな眼で見れば、宗教的自我の確立の途上にあ

              る、と言えるのでしょう。確立された健康な自我は、他者

              と交流のできる自我でしょう。

               与え与えられることのできる自我、学び学び合うことの

              できる自我、喜びや悲しみを分かち合うことのできる自

              我でしょう。そのような自我を「自己」と呼びましょうか。

              自己が確立された人ほど、人と出会うことが出来る。「宗

              教的」という冠がつこうとつくまいと、それは変わらぬ真実

              でしょう。そして「宗教的」という言葉がつくことの意味は、

              宗教をもつことによってますます人と出会うことができる、

              人種、国家、民族、階級、趣味、思想、信条、性格、性、

              年令、能力、経験の別を越えて、いよいよ人と出会うこと

              ができる。同じいのちとして、等しきいのちとして、交わる

              力が与えられる。そういう力をあたえてくれるものこそが、

              本当の宗教なのだとわたしは思います。


































                 固有の信仰が深くなれば、人を理解する力があたえ

              られる。自己を深くたずねれば、必ず自己の内なるいの

              ちに出会うことができる。その内なるいのちが「おさな児」

              なのでしょう。わたしたちがこの世に生まれて、かずか

              ずの差別の体験を繰り返して身につけていく自我の鎧、

              我執をかぎりなく打ち破り、砕き、貫いて踊りでようとする

              いのち、それが「おさな児」という真実のいのちです。こ

              の世界のあらゆる差別を貫いて、いのちと出会おうとす

              るいのちです。その「おさな児」を見出し、まだ弱いその

              「おさな児」を守り、育て、そしてこの差別と独善と支配

              の世界のただ中に「おさな児」を力強く生み出す力、それ

              が宗教の力だとわたしは思います。

                 わたしたちが自己自身であろうとすること、自己自身

              を見出そうとすることを、禅仏教では「己事究明」といいま

              す。それはわたしたちの内なるいのち、「おさな児」を見
































              出し、「おさな児」に目覚めることだと、わたしはもはや

              ためらうことなく言いましょう。その「おさな児」を、浄土

              仏教は「本願」と呼んでいます。如来の本願、如来によ

              って生み出されたいのちの願いです。おさな児であれば、

              生み出した親がいるはずです。その親様を仏教は如来

              と呼んで、おさな児が生意気にならぬように、親の恩を

              忘れるな、仏恩を忘れるなと、口をすっぱくして戒めてく

              ださるわけです。禅はそのおさな児を「自己」とか「真人」

              とか呼び、浄土はそのおさな児を「本願」とも「信心」とも

              呼んでいるのです。禅は、自己以外のものに頼ろうとする

              心を戒め、浄土は、自己が高慢になることを戒めています。

              そういう違いがありますが、見出しているのは同じいのち

              です。


                 そのいのちは、自己自身でありながら、また救済される

              いのちでもあります。そしてさらには、救済するいのちでも

              あります。いのちが、救済するいのちである自己自身に、
































              救済されるのです。救済するいのちを如来と呼び、救済さ

              れるいのちを信心と呼ぶのですが、如来と信心とは、親と

              子の分はあっても別のいのちではありません。信心である

              自己は、根源的自己である如来に呼び帰されて、かぎりなく

              自己自身に帰り、かぎりなく自己自身に生まれていくので

              す。その自己自身は、真実の自己であると同時に、罪業に

              しばられたわたしたちのすべて、人間のすべてであり、

              すべてのいのちです。

                 わたしはそのように浄土の教えを学び、そのように聞い

              ているものです。

                 そのおさな児のいのちが、わたしは、キリスト教のなか

              にも、ヒンドゥー教のなかにも、あるいはその他の宗教や

              宗派のなかにも、あるいはすでにいきいきと流れ、あるい

              は目覚めの時を待って密かに息づいていることを、信ずる

              ものです。そしてそれぞれが、お互いに多くの学び合える

              ものをもっていることも……。

































                 幸いに、おさな児のこころをもった善き友に出会うことが

              でき、そしてまた今度のように、集いの場をもつことができ

              たことを感謝いたします。願わくば、歩む道が異なり、異な

              った宗派や教団に属しておられようと、また属しておられま

              いと、宗教なるものに反発を感じておられようと、そうでな

              かろうと、人と人が出会う、いのちといのちとが本当の意味

             で交わろうとする願いを、自己のいのちとしてくださる方々が、

              善き友が、ひとりでもあらたに生まれてくださることを。