南無阿弥便り 第41号 2002年3月15日

 

南無阿弥便り 
第41号  2002 年 3 月15日

 

         きれいな手ではないか。

         よく見てごらん。

         仏の手だぞ。

この号の表紙      アショカの花にふれるマーヤー妃

 

         仏の手だぞ

         それは数年前、鈴木大拙(だいせつ)先生の秘書であった岡村美穂子さんが、先生との

出遇(であい) を語った文章に出会ったときのことです。

        「人が信じられなくなりました。生きていることが 空しいのです」

         お下げ髪の少女のこの訴えを聞いて、先生はただ「そうか」と頷かれた。否定でも肯定で

も、どちらでもな い言葉だと思いました。が、その一言から感じら れる深い響きは、私のかた

よっていた心に、新たな衝 撃を与えたのではないかと、いまにして鮮明に想い出 されます。

先生は私の手をとり、その手のひらをひろ げながら、

        「きれいな手ではないか。よく見てごらん。仏の手だぞ」

        そういわれる先生の瞳は潤(うるおい)をたたえていたのです。

        鈴木大拙先生は十五歳の少女が発した「生きていることがむなしいのです」という叫びに

対し、手をとり 「これは仏の手だぞ」とおっしゃったというのです。岡村さんはこの出遇いに

よって、鈴木先生に生涯師事 することになりました。

         私も十五歳の頃、およそ一年間、自己嫌悪の泥沼に陥って息をすることも苦しいというこ

とがありました。だからこの文章を呼んだ時、私も鈴木先生より手を取られ、「仏の手だぞ」

と言われたような気がしました。(中略)

         私も思い返せば、十五から十六にかけての一年間、学校に行くのも辛かった。父に

「もう学校をやめる。 どこか山奥の禅寺の小僧にでも出してくれ」と泣いてお願いしたこと

があります。もちろん父は「何を言って いるか全然わからない」といった顔でした。今だった

ら田舎にいてもいろんな情報が入ってくるでしょうから、 不登校とか退学とか家出とか、

何かアクションを起こせたと思います。しかし当時の私には、学校をやめ てから後の自分を

イメージできなかったし、イメージできぬまま故郷を飛び出る勇気もありませんでした。

        それではどうしたかというと、嫌な学校から帰ったら、小学校の一年生か二年生だった

三番目の妹を自転車 の後ろに乗せて、二キロほど離れたところにある大きな川に毎日

のように遊びに行きました。そして妹と 無邪気に石を投げたり、自転車のまま川を渡ったり

して遊んだのでした。妹はまだ小学校の一、二年で すから単純で、私の心を覗き込もうと

しません。ただ、暑ければ暑いと、おもしろければおもしろいと言う だけです。そういう存在、

まだ意識が未発達の、それこそいのちそのものと一つになって生きている幼い

        魂が、私を救ってくれたのでした。

藤谷知道師『悲の時代』(真宗大谷派教学研究所「教化研究」126号)より