経緯

〔一〕経緯
 真宗大谷派は、真宗大谷派出版部(東本願寺出版部)より、『念仏詩文集 枯草独語』(浅田正作著)を二〇〇七年一〇月一日に発行しました。しかし、その本文中「山口県光市で起きた母子殺害事件に係る裁判等に関して書かれた内容に重大な事実誤認」があったこと、またそれに基づく記述が「同裁判の弁護人である安田好弘弁護士に対する言われなき非難であり、安田氏の人格を著しく傷つけるもの」であったこと、さらに「出版当時、進行中であった裁判の被告人や弁護人についてマスコミの報道を鵜呑みにし、断定した見解を示すなど問題記述があった」として、同年一〇月六日に頒布を停止し、絶版処分としました。
 しかしながら、その前提として示された「著者と問題内容を確認のうえ」という説明が事実と異なることを確認した上で、「浅田正作先生の名誉回復を願う会」代表三木悟は、二〇〇九年五月七日付けで、真宗大谷派宗務総長安原晃氏宛に『公開質問状ならびに要望書』を送付しました。その趣旨を要約すれば、以下のようなものでした。
●絶版回収という今回の処分は、極めて重大な思想統制行為であること。宗教教団である以上、宗門の根本理念に反する言論を認めないのは当然だが、問題は、その決定が充分な検証の下に為されたかどうかということ。
●宗門に属するわれわれ僧侶、門徒に知らされたのは、平成二十一年『真宗』誌三月号に発表された「『念仏詩文集 枯草独語』発刊に係るお詫びと回収のお願い」(以下「回収のお願い」と表記)だけであり、ここには処分の理由となった当の文章も、その処分の妥当性を判断すべき、何らの理路も示されてはいない。
●したがって、その処分の理由となった文章の当該箇所を公開してほしい。次いで、その当該文章が、宗門の根本理念に反するかあるいはそれに相当するほど重大な違反であると判断した根拠と、その理路を開示してほしい。 
●その上で、開示されたその根拠と理路を、一部の者が勝手に決めつけるのではなく、真宗大谷派のサンガ全体で検証すべきものと考える。したがって、処分相当と判断した立場からの論述と、それに対抗する弁護側の論述とを『真宗』誌と『同朋新聞』紙に公開することを要望する。
 これに対し、二〇〇九年五月二八日付で、真宗大谷派宗務所出版部長名にて、回答が寄せられました。内容は添付のとおりであり、処分の理由となった文章の当該箇所の公開も、その理路の開示も行う意思のないことが表明されています。ここをもって、「浅田正作先生の名誉回復を願う会」代表三木悟は、真宗大谷派宗門によっても、出版部によっても、今回の問題における「事柄の本質」が理解されていないと判断しました。よって、「出版活動の責任を担う宗派(出版部)の責任」において絶版処分が下された、その理由と想像される当該文章を宗門外に公表し、処分の不当であることを、第三者たる宗門外の報道機関を通して訴えることを決意しました。

〔二〕「『念仏詩文集 枯草独語』発刊に係るお詫びと回収のお願い」ならびに、「公開質問状」に対する真宗大谷派宗務所出版部長名による回答

 *当該文章を引用します。


●「『念仏詩文集 枯草独語』発刊に係るお詫びと回収のお願い」
「真宗大谷派宗務所出版部(東本願寺出版部)より、2007年10月1日に発行いたしました『念仏詩文集 枯草独語』(浅田正作著)の頒布停止と回収にあたり、ご購入いただきました皆様ならびに関係者各位に対しまして、ご迷惑をおかけいたしましたことを深くお詫び申し上げます。
 『念仏詩文集 枯草独語』の本文中、山口県光市で起きた母子殺害事件に係る裁判等に関して書かれた内容に重大な事実誤認がありました。それに基づく記述は、同裁判の弁護人である安田好弘弁護士に対する言われなき非難であり、安田氏の人格を著しく傷つけるものでありました。また出版当時、進行中であった裁判の被告人や弁護人についてマスコミの報道を鵜呑みにし、断定した見解を示すなどの問題記述がありました。このような理由から、同年10月6日に頒布を停止し、著者と問題内容を確認のうえ絶版といたしました。あわせて、購入された方々には回収の協力をお願いいたしました。
 本来、宗派の出版活動は、真宗の教えを社会に発信し、社会や宗門のもつ課題の共有化を目指すことが使命であります。しかしながら、今回の問題記述につきまして、出版部における編集校正の段階において確認作業を行いながらも見過ごしてしまいましたことは、全く申し開きのできないことであります。編集に携わるものとして、裁判制度や弁護士の職務に対する認識不足もさることながら、憶測や思い込みなどにより、事件の本質を見失っていたことは否めません。
 さらに当派において、これまで死刑が執行されるたびに宗務総長名をもって「死刑執行の停止、死刑廃止を求める声明」を表明してきたにもかかわらず、このような事態にいたりましたことは声明とその取り組みの内実が伴っていないあり方を露呈したことであります。
 今後、改めて出版部に課せられた使命を再確認し、編集体制の充実を図るとともにその使命を果たすべく宗門の出版活動に取り組んでまいる所存であります。
 また、これまで当書籍を購入いただいた方々に回収への協力をお願いしてまいりましたが、現在すべてを回収するには至っておりません。つきましては、当書籍をお持ちの方がおられましたら、上記の意をお汲み取りいただき回収にご協力くださいますよう重ねてお願い申し上げます。(出版部)」
 *以下、回収書籍の送付先として、真宗大谷派宗務所出版部の住所が記されています。

●「公開質問状」に対する真宗大谷派宗務所出版部長名による回答
*以下の様式で回答が送付されました。

                        出版部第89号
                        2009年5月28日
 真宗大谷派東京教区横浜組
  高明寺住職 三木 悟 様
                    真宗大谷派宗務所
                      出版部長 鷲尾幸雄
 「真宗大谷派宗門に対する公開質問状ならびに要望書」について(回答)
拝復 平素は、ご健勝にて為法精進のことと拝察いたします。
 過日、宗務総長宛の標記書面を拝見いたしました。宗派出版部の編集・発行に携わっております立場から回答させていただきます。
 まず是非ともご理解を賜りたいことは、当派の機関誌である『真宗』誌の3月号に掲載の「『念仏詩文集 枯草独語』発刊に係るお詫びと回収のお願い」に記載いたしました頒布停止・回収及び絶版につきましては、決して著者に対する処分という意図ではないということでございます。
 あくまでも、編集・発行を行った宗派(出版部)の責任を明確にするとともに、安田好弘弁護士をはじめ関係者へのご迷惑を最小限にとどめなければならないという判断による措置として行ったことであります。したがいまして、著者の名誉を障つけたり、その歩みを否定したりするというような意図は全くございません。むしろ、頒布停止・回収・絶版の措置を高じなかった場合には、結果として、ご懸念のようなことにもなりかねないとも思慮いたしたことであります。今回の問題は、あくまで出版活動の責任を担う宗派(出版部)の責任として受け止めております。
 したがいまして問題と受け止めております記述内容は、関係の方に更にご迷惑が及ぶことでございますので、『真宗』誌3月号に掲載した以上の公表はできませんのでご理解を賜りたく存じます。
 なお、上記の内容につきましては、改めて著者と面談のうえ確認をさせていただいておりますことを申し添えます。
 今後、今回の問題を通して問われました責任と課題を真摯に受け止め、出版活動に取り組んでまいりたいと存じますので何卒よろしくお願い申し上げます。
                                  敬具

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〔三〕真宗大谷派によって絶版処分が下された理由と想像される当該文章

 *浅田正作先生ご本人よりお借りした『念仏詩文集 枯草独語』〔東本願寺発行・二〇〇七年〕から、当該文章を抜粋します。以下の部分が問題視されたと思われます。


「平成十八年四月二十日

 一九九九年に山口県で起きた、母子殺害事件で殺人の罪に問われた当時十八歳の少年だった被告(25)の裁判の弁論が十八日、最高裁第三小法廷(浜田邦夫裁判長)で開かれた。
 先月の弁論期日に出廷しなかった弁護人の安田好弘弁護士らが「一、二審判決には事実誤認がある」と、弁論の続行を求めたが、同小法廷は認めず、追加の主張は一か月以内に書面で提出するよう求めて結審した。
 以上は、十九日の北國新聞朝刊・社会二面の記事である。民法のテレビ番組でも、妻子を殺されて七年、謝罪の言葉もなかった被告人への憎悪と復習に燃える夫が極刑を望み、一方では加害者の弁護士が、被告人の殺意を否定していることなどが報じられている。
 なんと痛ましい、救われようのない裁判が七年もつづけられてきたことであろうか。すべてはこの弁護人の恣意による不誠実な対応によって、時間と国費が浪費され、人間不在の裁判が不当に長期化されてきたとしか思われない。
 ようやく、同小法廷が弁論を開いたことから、一、二審の無期懲役判決が見直される可能性があると報じられている。けれども、この裁判の弁護士が死刑廃止論者であり、これまでも、その詐術にも等しい弁論で、幾多の凶悪犯の極刑を免れさせて来ている。
 この弁護士は、弁護士である前に人間であることを忘れているようである。人間に生まれながら人間の心を失い、人間が決めた六法全書から生まれた、法律の化け物となっていると思われる。人間の温かい体温など持ち合わせていない冷血漢に、愛しい妻子を殺された遺族の、悲痛な叫びなど聞こえないであろう。
 おそらく、その少年がおのれの罪を認めようとせず、被害者の遺族に一言の謝罪の言葉もなく、友達宛に司法の権威に挑戦するような手紙などを書く裏には、この弁護士の教唆があったのではないかと疑われてくる。

 今の司法制度では望むべくもないと思う。しかし、若しこれが人間の心を持った弁護士なら、その殺意の有無に関わらず、先ず始めに被告人に犯した罪の重大性を認識させ、誠意をもって被害者の遺族への謝罪を進め、被告人と共に被害者の遺族へ許しを請い、そのうえで情状酌量を願う弁護をするのではなかろうか。
 その加害者の一滴の涙が、懺悔の慟哭が、どれ程被害者の遺族や裁判官の心証に影響するかわからない。法の裁きにも涙があることを私は信じたい。
 古来より、わが国には罪を憎んで人を憎まずという言葉があった。それは、罪を犯した人間の心からの謝罪の言葉と、涙の慟哭があったからであろう。そこにこそ、互いに仇敵同士が恩讐を超える道も開かれていたと思う。

 人間一人一人の命はかけがえのないものであり、、死刑のない平和な社会は誰しもが望むところであろう。しかしそのかけがえのない命が、それも無抵抗な婦女や幼い命が無造作に奪われ、あるいは血を分けた親と子が、憎悪の果てに殺し合うなど、血なまぐさい事件が後を絶たないのはどうしてだろうか。
 悲しいことではある。けれどもこれが、我々の現に生きている世界の実相ではないのか。有史以来、人の世に殺戮や戦争のなかった時代があったろうか。科学技述の進歩につれ、世の中は昔の面影がないほど豊かに便利になった。
 しかしそれで、人間の心はどうなったのか。衣食足りながら、礼節に乏しく、無慙無愧、無軌道三昧の人間が巷にあふれてきた。人の世を覆う混迷の闇は、いよいよ混沌としてその深さを増すばかりである。どこに明るい未来の展望があるのだろうか。
 このことを既に、千六百年もの遠い昔、聖徳太子は「世間虚仮、唯仏是真」と仰せになった。この真言を受けられ、親鸞さまは「ただ念仏のみぞまことにておわします」とお述べになられた。念仏は如来からの戴きもの、念仏は人間の知恵から出るそらごと、たわごとではなかった。
 それを他力回向と知らされたのである。念仏が忘れられていることが、世の乱れの根っこにあるのではないのか。私もその中の一人、泥沼のような八十年を生かされて、ようやく「念仏一つ」が、命よりも大事なものとなった幸せが思われる。

 この虚仮不実の身が、合掌礼拝して念仏が申されることの不思議さよ。なんと有難い、勿体ない、お陰さまではなかろうか。この愚痴きわまりなき人間が、念仏のお陰さまで、人の世の悲しさを知り、喜びを味わうことができるのである。
 念仏なければ、倫理も道徳も虚仮の行となり、念仏あればこそ、人は礼節や仁義を知るのではなかろうか。」今の司法制度では望むべくもないと思う。しかし、若しこれが人間の心を持った弁護士なら、その殺意の有無に関わらず、先ず始めに被告人に犯した罪の重大性を認識させ、誠意をもって被害者の遺族への謝罪を進め、被告人と共に被害者の遺族へ許しを請い、そのうえで情状酌量を願う弁護をするのではなかろうか。
 その加害者の一滴の涙が、懺悔の慟哭が、どれ程被害者の遺族や裁判官の心証に影響するかわからない。法の裁きにも涙があることを私は信じたい。
 古来より、わが国には罪を憎んで人を憎まずという言葉があった。それは、罪を犯した人間の心からの謝罪の言葉と、涙の慟哭があったからであろう。そこにこそ、互いに仇敵同士が恩讐を超える道も開かれていたと思う。
 人間一人一人の命はかけがえのないものであり、、死刑のない平和な社会は誰しもが望むところであろう。しかしそのかけがえのない命が、それも無抵抗な婦女や幼い命が無造作に奪われ、あるいは血を分けた親と子が、憎悪の果てに殺し合うなど、血なまぐさい事件が後を絶たないのはどうしてだろうか。

 悲しいことではある。けれどもこれが、我々の現に生きている世界の実相ではないのか。有史以来、人の世に殺戮や戦争のなかった時代があったろうか。科学技述の進歩につれ、世の中は昔の面影がないほど豊かに便利になった。
 しかしそれで、人間の心はどうなったのか。衣食足りながら、礼節に乏しく、無慙無愧、無軌道三昧の人間が巷にあふれてきた。人の世を覆う混迷の闇は、いよいよ混沌としてその深さを増すばかりである。どこに明るい未来の展望があるのだろうか。
 このことを既に、千六百年もの遠い昔、聖徳太子は「世間虚仮、唯仏是真」と仰せになった。この真言を受けられ、親鸞さまは「ただ念仏のみぞまことにておわします」とお述べになられた。念仏は如来からの戴きもの、念仏は人間の知恵から出るそらごと、たわごとではなかった。
 それを他力回向と知らされたのである。念仏が忘れられていることが、世の乱れの根っこにあるのではないのか。私もその中の一人、泥沼のような八十年を生かされて、ようやく「念仏一つ」が、命よりも大事なものとなった幸せが思われる。
 この虚仮不実の身が、合掌礼拝して念仏が申されることの不思議さよ。なんと有難い、勿体ない、お陰さまではなかろうか。この愚痴きわまりなき人間が、念仏のお陰さまで、人の世の悲しさを知り、喜びを味わうことができるのである。
 念仏なければ、倫理も道徳も虚仮の行となり、念仏あればこそ、人は礼節や仁義を知るのではなかろうか。」
 

 以上の文章です。

〔四〕回答に「改めて著者と面談のうえ確認」したとある点について。
 宗門による「頒布停止・回収・絶版」処分について、著者と面談のうえ、私も確認いたしました。先生は「絶版」処分自体を宗派から知らされていませんでしたし、当然、同意もしておられません。私が宗務総長宛に提出した「公開質問状」の発送後に、出版部より再度浅田先生に対して圧力がかかったとのことです。先生は体調を悪くされて、現在は面会もできない状況です。(2009年6月現在)