梗概と抜粋資料


第三章 近世・近代における仏教批判と仏教の模索

              〔梗概と抜粋資料〕

 前の章(第二章「仏教はほんとうに裁かないのか」)では、仏教は「人を裁かない」という考え方に対して、それがほんとうであるかどうかを検討してみました。
 そうした(仏教は「裁かない」というような)考え方は、実は今にはじまったことではなく、かなり以前から日本の僧侶のもつ傾向であったようです。
 江戸時代になされた仏教批判の理由の一つとして、「仏教には倫理がない」という指適があります。明治になって、外来のキリスト教が入ってきた時にも、どうようの批判がなされました。
 それに対して、近代の仏教者たちは、それぞれに悪銭苦闘してきました。
 この章では、近世の江戸時代になされた仏教批判と、近代の明治になってからの仏教批判をとりあげます。
 また一方、仏教者自身の中からも従来の仏教に対する反省や内部批判が生まれました。
 すでに江戸時代にも、一部の志ある仏教者によってそういう発言がなされているのですが、明治以後いっそう強まる仏教批判に対して、
近代の仏教者たちはどう応えようとしたか。「仏教と倫理」をめぐる、近世・近代における仏教者たちの模索をとりあげます。

一、江戸時代になされた仏教批判
                       〔抜粋資料〕

 「廃仏毀釈は単に明治維新期に限ったことではない。それは近世仏教が幕藩体制に捉えられて御用宗教となり形式化して以来、今日まで続いている問題である。」
  (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕解説・一〇頁)
 「徳川幕藩体制下の廃仏思想は、通常、倫理主義的立場、政治経済的立場、科学思想的立場の三つがあるといわれる。この三つは廃仏思想の原基となるものである。」
  (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕解説・一〇頁)
 「倫理主義的立場の廃仏思想の中心は林羅山らの朱子学者で、仏教は五倫五常を否定し、出家の立場をとるという理由からの非難である。これは封建的枠内ではあるが、人間肯定の立場から仏教の来世主義を攻撃したわけである。」
  (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕解説・一〇頁)
 「政治経済的立場の廃仏思想は、中井竹山の『草茅危言』などにみえる考え方で、仏教の封建経済に及ぼす圧迫、仏教僧侶の遊堕に対する非難などで、特に経済的矛盾の深刻化の中で強く現れた。」
  (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕解説・一〇頁)
 「科学的立場の廃仏思想は、仏教の輪廻転生説や、仏教的宇宙観としての須弥山説への批判などで、山片蟠桃などがその主張をしている。」
  (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕解説・一〇頁)
 「幕藩体制下で国教化し形骸化していた仏教に対するこれら人間主義的・現実主義的・合理主義的批判は、思想史的にみても大事な発言であった。近世以降の仏教覚醒の路線は、これらの廃仏思想に応える形でひかれていったからである。」
  (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕解説・一〇頁)
 「廃仏思想に対する仏教の反応は、直接的な反駁、および批判を受け入れて世俗倫理と融合をはかる立場、御用宗教化に対する自己反省という三つがあった。(……)第二の世俗倫理と仏教の結合をはかったものには、儒教の武士的形式的倫理に対し庶民教化という形で行われたものもあり、曹洞宗の鈴木正三などはその代表的人物であった。第三の自己反省は戒律運動にみられるが、慈雲の十善戒は著名である。」
  (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕解説・一〇~一一頁)
 「江戸後半期から幕末にかけて、仏教は二つの対決相手を持った。その第一は復古神道で、特に平田篤胤は『出定笑語』(*その以前に、富永仲基が『出定後語』を書いている)その他の廃仏書を発表した。平田神道の仏教排斥は政治的意義は大きいが、思想的根拠は深いものではなかった。その攻撃は主として真宗・日蓮宗にむけられたので、真宗などからは多くの反駁書がだされたが、これもまた目新しいものはない。これら廃仏論を背景に、水戸・岡山・会津・薩摩などでは廃仏政策がとられている。」
  (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕解説・一一頁)
 「キリシタン弾圧を梃子に近世仏教が御用宗教化したことは、キリスト教に対する日本仏教の永遠の負い目であろう。」
  (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕解説・一一頁)
 「幕末に来朝したプロテスタントはすでに近代化した宗教であった。異なった教義を持つ仏教とキリスト教の間に、汎神論対一神論等々をめぐって激しい論争が展開された。このときの仏教の中心は多分にキリスト教と類似性をもつ真宗であった。しかし仏教のキリスト教批判には感情論が多く、むしろ仏教はキリスト教を攻撃しつつ近代的開眼をするという皮肉な現象もみられたのである。」
  (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕解説・一一頁)

1.儒教の仏教批判
                 〔抜粋資料〕
 「政治権力による宗教の完全な支配、その末端機構化、および禁教政策は、幕藩制宗教政策の主要な特徴であった。この一貫した政策は、仏教各宗にたいする将軍・諸大名の保護と相まって、教団内に支配体制のヒエラルヒーの忠実な再現をもたらし、僧侶たちは、権力に従属した直接的な監視者・収奪者として民衆の前に立ち現れることになった。支配者が、一方ではきびしい統制を加えながら教団に要求してやまなかった教学の整備も、結局は、信者とは縁のない、いたずらに繁雑な教判に終わらねばならなかった。これらの諸点は、東西の諸民族がそれぞれ経験した「封建宗教」に共通する、主要な特徴であったといえる。」
 (村上重良『近代民衆宗教史の研究』法蔵館〔昭和三八年/一九六三年〕一二頁)

 「寺社領の縮小と封土化は、寺請制による寺檀関係の安定という特権を差引いても、諸教団の経済的基礎を著しく弱めた。そのため諸教団は、権力に迎合してその保護をねがうとともに、新たな経済的基礎を民衆のなかに求めなければならなかった。諸教団が好むと好まざるとにかかわらず選んだ俗化・企業化のコースは、厳格な身分制度の励行、支配を荘厳化するための教学整備という幕府・諸藩の要求に背反する性格をもっていた。」
 (村上重良『近代民衆宗教史の研究』法蔵館〔昭和三八年/一九六三年〕一二頁)

 「信仰のために悩み、民衆への愛情にめざめて、その救済をねがう宗教者ほんらいの生き方は、教団の頽廃と、支配者がつくりだした重苦しい封建支配と教団統制の壁につき当たらねばならなかった。」
 (村上重良『近代民衆宗教史の研究』法蔵館〔昭和三八年/一九六三年〕一二頁)

 「民衆に依存する寺社の存在は、やがて財政的な窮迫に悩む幕府・諸藩にとって、経済的な行き詰まりの一因と考えられるようになった。元禄期までは、おおむね保護政策を採っていた幕府は、亨保改革を境に宗教政策を財政建て直しの見地から修正し、寺社の新規造建禁止を強化し、寺院への田畑寄進を厳禁するなど、「冷遇」政策に転じた。民衆の間の反仏教気運の増大を知って、仏教による封建支配の荘厳化にあまり大きな期待をかけなくなった支配階級は、破戒僧の峻厳な処断や、宗教的浮浪者の取締りによって、その威信を辛うじて保たせ、幕初いらいの仏教の役割を温存しようと図ったのである。」
 (村上重良『近代民衆宗教史の研究』法蔵館〔昭和三八年/一九六三年〕一三頁)

 「民衆は、いずれかの寺に檀家として固く結びつけられて、仏教の信仰を強制され、例外なく僧侶たちの収奪と、時には、ほしいままな横暴に直面していた。」
 (村上重良『近代民衆宗教史の研究』法蔵館〔昭和三八年/一九六三年〕一三頁)

 「僧侶が施物をねだって葬式をわざと延引させたり、金銭のみをめあてに武家農商を問わず院号を乱発したり、寺主のいう通り出金しないと死亡のとき引導をわたさないなど、その事例は枚挙にいとまがないほどであった。江戸初期のお伽草子・仮名草子の類にも、すでに反映している民衆の反仏教感情は、江戸中期いご、貨幣経済の浸透と商業資本の制覇によって農民・市民の窮貧が深まり、その反抗が激化するにつれ、ますます深刻化していった。」
 (村上重良『近代民衆宗教史の研究』法蔵館〔昭和三八年/一九六三年〕一三頁)

 「事実、民衆にとっては、檀徒として負わされる物質的な負担は、かなりの重荷であった。企業化し、出開帳・縁日・富突きと、あくことない利潤の追及をねらう寺社と、生活にのしかかり、あきらめと盲従を説く末端吏僚同然の僧侶に対して、民衆はしばしば痛烈な罵倒と憤りを投げつけた。(注4「坊主まるもうけ」「坊主にくけりゃケサまでも」等の俗諺が行なわれ、川柳でも「村で聞きや大僧正も血の余り(末っ子引用者)と嘲弄されるなど、みな、民衆の仏教への反感を示すものである。一七四二年(寛保二)初演の「雷神不動北山桜(鳴神)」も、法力にたいする人間性の勝利というテーマの反宗教劇として注目される。」
 (村上重良『近代民衆宗教史の研究』法蔵館〔昭和三八年/一九六三年〕一三頁)

 「しかし同時に、伝統的な神仏の権威への畏敬や、稀な存在ではあったが民衆の救護と教化に献身した宗教者への敬愛の念は、民衆の間に、なお根強く生きつづけていた。」
 (村上重良『近代民衆宗教史の研究』法蔵館〔昭和三八年/一九六三年〕一三頁)

 「このようにして幕府は、教団を完全に支配しながらも、民衆にたいする寺社の伝統的権威をまもり、支配機構の一環として教団を効果的に利用しようとした。」
 (村上重良『近代民衆宗教史の研究』法蔵館〔昭和三八年/一九六三年〕一四頁)

 「しかし、幕府は、ほどなく、この企図が醸成していった深刻な諸矛盾に直面しなければならなかった。(……)イデオロギーのうえでも、権力とむすぶ諸宗教、とくに仏教への批判は鋭さをましていった。」
 (村上重良『近代民衆宗教史の研究』法蔵館〔昭和三八年/一九六三年〕一四頁)

 「仏教は、幕府の草創期に、官学たる朱子学の側から、その出世間的性格を「虚学」として衝かれ、はじめてその全体系が批判にさらされた(注7三枝博音・鳥井博郎「日本宗教思想史」一八八二一三ページ参照。わがくにの朱子学は禅宗のなかではぐくまれたが、陽明学とは対照的に、超絶的な存在を強調せず、実践道徳的な傾向がつよく、仏教の本質批判に有利であった。陽明学は超絶者を立てて、宗教的な性格がつよかった。このことは蕃山ら初期の異端学者がキリシタンの疑いをうけたり、後年、横井時雄のように陽明学系でプロテスタンチズムに移行する者が現れる一因となった)。」
 (村上重良『近代民衆宗教史の研究』法蔵館〔昭和三八年/一九六三年〕一四頁)

 「さらに儒者・考証家・経世家など朱子学系・陽明学系・古学系の学者から容赦ない攻撃を浴びせられた。」
 (村上重良『近代民衆宗教史の研究』法蔵館〔昭和三八年/一九六三年〕一四頁)

 「大義名分論、尊王論、さまざまな経世論の論者たちは、しばしば反感や軽侮の念をもって仏教を批判しており、一九世紀初頭には朱子学の流れから自覚的な無神論がとなえられるにいたった。(注8大阪懐徳堂の中井竹山、中井履軒、富永仲基、山片蟠桃や経世家の正司孝棋などの思想に積極的な排仏論、反宗教論を見ることができる。」
 (村上重良『近代民衆宗教史の研究』法蔵館〔昭和三八年/一九六三年〕一四頁)

 「また、主情主義的な傾向をもつ古典探求を中心に展開した国学の主流は、やがて宗教的・ナショナリズム的色彩を強めて平田国学=復古神道として体系化され、仏教と習合的な神道説(俗神道)を憎悪をこめて論難してやまなかった。」
 (村上重良『近代民衆宗教史の研究』法蔵館〔昭和三八年/一九六三年〕一四頁)

 「民衆の信仰も、幕藩制がゆらぎはじめる一八世紀いご、支配者の意図をよそに、新たな救済の幻想と呪術的な現世利益をもとめて、民衆的な諸信仰・諸教団を育ててゆくのである。」
 (村上重良『近代民衆宗教史の研究』法蔵館〔昭和三八年/一九六三年〕一四頁)
 
●藤原惺窩の仏教批判

●熊沢蕃山の仏教批判
 

2.国学・神道の仏教批判
 
二、明治以後の仏教批判

●明治期の仏教批判
                    〔抜粋資料〕
 
 
 
                               
 (池田英俊「近代仏教における倫理と宗教性について」/下出積與編『日本における倫理と宗教』吉川弘文館〔昭和五五年/一九八〇年〕所収 二三七頁)
                                                                                                                                                                
 
 
                                                                                                                        三、江戸期・仏教者の内省と自己批判
●真言宗・慈雲飲光

●日蓮宗不受不施派・日奥

 (続・日本仏教の思想5『近世仏教の思想』柏原祐泉・藤井学・校注/岩波書店・日本思想大系〔一九七三年/新装版一九九五年〕
 
●浄土宗・孤立大我『三彝訓(さんいくん)』(宝暦八年・一七五八年)
 大我は浄土宗の人。京都石清水の正法寺二十二世として活躍しました。
 彼は『漢書』の文、
 「今、本に背きて末に趨(はし)り、食ふ者甚だ多し。これ天下の大残なり。淫侈の俗、日日以て長ず。これ天下の大賊なり。残賊公に行はれて止むること或ることなからんは、大命まさに泛(なが)れんとしてこれを振救(しんきゅう)することなし。これを生ずる者甚だ少なくして、これを靡(た)やす者甚だ多し。天下の財産、何ぞ蹶(つ)きざることを得ん。」(『漢書』〔貪貨志〕)
 を引用し、「民それ、これを思ふことなからんや。」と問います。
 大我はその問いを自らへ向け「我、方外(世俗の外。仏教界)に遊びて、織らず耕さず、飽煖乏しきことなし。残賊の甚だしき者にあらずや」と慚愧します。
 大我は仏教の人でありながら、『大学』『中庸』『易経』など儒教の書を縦横に引き、そのことばを重んじています。彼は「仏教・儒教・神道」の三者が共に重要な教えであると説き、仏教批判を展開した古学派の儒者、荻生徂徠に反対しました。
 その要点は、「勧善懲悪」「天下安泰」の教えとして三教は一致するというものであり、まさにその時代における「倫理」の問題を考えているわけです。
 (続・日本仏教の思想5『近世仏教の思想』柏原祐泉・藤井学・校注/岩波書店・日本思想大系〔一九七三年/新装版一九九五年〕七~三三頁)
 

●東本願寺講師・香樹院徳竜『僧分教誡三罪録』(一八二六年以前)
 
 (続・日本仏教の思想5『近世仏教の思想』柏原祐泉・藤井学・校注/岩波書店・日本思想大系〔一九七三年/新装版一九九五年〕
●東本願寺講師・香山院竜温『総斥排仏弁』(一八六五年)
                                                                                                                         (続・日本仏教の思想5『近世仏教の思想』柏原祐泉・藤井学・校注/岩波書店・日本思想大系〔一九七三年/新装版一九九五年〕
                                                                                                                                                                                                                                                                                         (続・日本仏教の思想5『近世仏教の思想』柏原祐泉・藤井学・校注/岩波書店・日本思想大系〔一九七三年/新装版一九九五年〕
                                        
四、近代における仏教者の模索

   (池田英俊「近代仏教における倫理と宗教性について」/下出積與編『日本における倫理と宗教』吉川弘文館〔昭和五五年/一九八〇年〕所収 二三七頁)

 
 
●西本願寺・島地黙雷『三条教則批判建白書』
 (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕所収)
●井上円了『仏教活論序論』
                                         (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕所収)

●福田行誡『仏法と世法』
  (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕所収)

●村上専精『仏教統一論』
 (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕所収)

●田中智学『宗門の維新』

 (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕所収)

●清沢満之『わが信念』

 (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕所収)

●金子大栄『受苦と随喜と尊重』
                                         (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕所収)

●妹尾義郎『社会変革途上の新興仏教』
                                         (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕所収)

●藤井日達『立正安国』
 (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕所収)

●牧口常三郎『生活指導原理としての価値論』

                                         (現代日本思想大系7『仏教』吉田久一・編集解説/筑摩書房〔一九六五年〕所収)