封殺された浅田正作氏の文章を公開します

真宗大谷派によって絶版処分が下された理由と想像される当該文章

 *浅田正作先生ご本人よりお借りした『念仏詩文集 枯草独語』〔東本願寺発行・二〇〇七年〕から、
当該文章を抜粋します。以下の部分が問題視されたと思われます。

「平成十八年四月二十日

 一九九九年に山口県で起きた、母子殺害事件で殺人の罪に問われた当時十八歳の少年だった被告(25)の裁判の弁論が十八日、
最高裁第三小法廷(浜田邦夫裁判長)で開かれた。
 先月の弁論期日に出廷しなかった弁護人の安田好弘弁護士らが「一、二審判決には事実誤認がある」と、弁論の続行を求めたが、
同小法廷は認めず、追加の主張は一か月以内に書面で提出するよう求めて結審した。
 以上は、十九日の北國新聞朝刊・社会二面の記事である。
民法のテレビ番組でも、妻子を殺されて七年、謝罪の言葉もなかった被告人への憎悪と復習に燃える夫が極刑を望み、
一方では加害者の弁護士が、被告人の殺意を否定していることなどが報じられている。
 なんと痛ましい、救われようのない裁判が七年もつづけられてきたことであろうか。
すべてはこの弁護人の恣意による不誠実な対応によって、時間と国費が浪費され、
人間不在の裁判が不当に長期化されてきたとしか思われない。
 ようやく、同小法廷が弁論を開いたことから、一、二審の無期懲役判決が見直される可能性があると報じられている。
けれども、この裁判の弁護士が死刑廃止論者であり、
これまでも、その詐術にも等しい弁論で、幾多の凶悪犯の極刑を免れさせて来ている。
 この弁護士は、弁護士である前に人間であることを忘れているようである。
人間に生まれながら人間の心を失い、人間が決めた六法全書から生まれた、法律の化け物となっていると思われる。
人間の温かい体温など持ち合わせていない冷血漢に、愛しい妻子を殺された遺族の、悲痛な叫びなど聞こえないであろう。
 おそらく、その少年がおのれの罪を認めようとせず、被害者の遺族に一言の謝罪の言葉もなく、
友達宛に司法の権威に挑戦するような手紙などを書く裏には、この弁護士の教唆があったのではないかと疑われてくる。
 今の司法制度では望むべくもないと思う。しかし、若しこれが人間の心を持った弁護士なら、その殺意の有無に関わらず、
先ず始めに被告人に犯した罪の重大性を認識させ、誠意をもって被害者の遺族への謝罪を進め、
被告人と共に被害者の遺族へ許しを請い、そのうえで情状酌量を願う弁護をするのではなかろうか。
 その加害者の一滴の涙が、懺悔の慟哭が、どれ程被害者の遺族や裁判官の心証に影響するかわからない。
法の裁きにも涙があることを私は信じたい。
 古来より、わが国には罪を憎んで人を憎まずという言葉があった。
それは、罪を犯した人間の心からの謝罪の言葉と、涙の慟哭があったからであろう。
そこにこそ、互いに仇敵同士が恩讐を超える道も開かれていたと思う。
 人間一人一人の命はかけがえのないものであり、、死刑のない平和な社会は誰しもが望むところであろう。
しかしそのかけがえのない命が、それも無抵抗な婦女や幼い命が無造作に奪われ、
あるいは血を分けた親と子が、憎悪の果てに殺し合うなど、血なまぐさい事件が後を絶たないのはどうしてだろうか。
 悲しいことではある。けれどもこれが、我々の現に生きている世界の実相ではないのか。
有史以来、人の世に殺戮や戦争のなかった時代があったろうか。
科学技述の進歩につれ、世の中は昔の面影がないほど豊かに便利になった。
 しかしそれで、人間の心はどうなったのか。衣食足りながら、礼節に乏しく、無慙無愧、無軌道三昧の人間が巷にあふれてきた。
人の世を覆う混迷の闇は、いよいよ混沌としてその深さを増すばかりである。どこに明るい未来の展望があるのだろうか。
 このことを既に、千六百年もの遠い昔、聖徳太子は「世間虚仮、唯仏是真」と仰せになった。
この真言を受けられ、親鸞さまは「ただ念仏のみぞまことにておわします」とお述べになられた。
念仏は如来からの戴きもの、念仏は人間の知恵から出るそらごと、たわごとではなかった。
 それを他力回向と知らされたのである。念仏が忘れられていることが、世の乱れの根っこにあるのではないのか。
私もその中の一人、泥沼のような八十年を生かされて、ようやく「念仏一つ」が、命よりも大事なものとなった幸せが思われる。
 この虚仮不実の身が、合掌礼拝して念仏が申されることの不思議さよ。なんと有難い、勿体ない、お陰さまではなかろうか。
この愚痴きわまりなき人間が、念仏のお陰さまで、人の世の悲しさを知り、喜びを味わうことができるのである。
 念仏なければ、倫理も道徳も虚仮の行となり、念仏あればこそ、人は礼節や仁義を知るのではなかろうか。」


 以上の文章です。