高明寺レポート
救いと責任ー「死刑」を考える・序と梗概
救いと責任死刑を考える 〔梗概〕
序
二〇〇九年の五月には、裁判員制度が開始され、わたしたち一般人が死刑や無期懲役を裁決する重要な裁判にかかわらなければならない、
という事態が生まれました。
近年になって、急速なペースで推し進められている司法制度改革の骨子は、一つは法科大学院に代表される法曹の育成と法学教育の改革であり、
一つはキャリア裁判官の独占してきた座を、弁護士任官裁判官、検察官、行政・企業で働く有資格者にも開放すべきとする、
「法曹一元」ということばで語られる改革であり、さらなる一つは、司法に対する国民参加だといわれます(注1)。
一つはキャリア裁判官の独占してきた座を、弁護士任官裁判官、検察官、行政・企業で働く有資格者にも開放すべきとする、
「法曹一元」ということばで語られる改革であり、さらなる一つは、司法に対する国民参加だといわれます(注1)。
こうした流れの背景には、日本の司法制度・裁判制度が今ひとつの転機にさしかかっている、ということがあるのだと思います。
法律にかかわる人々、裁判官、検事、弁護士、いずれの人々も、国民の意志を考慮せずには、時にはその判断を仰ぐことを抜きにしては、
確信を持って法の執行を為しえない、という状況が生じはじめているのです。その象徴的な意味をもっているのが、死刑問題です。
法律にかかわる人々、裁判官、検事、弁護士、いずれの人々も、国民の意志を考慮せずには、時にはその判断を仰ぐことを抜きにしては、
確信を持って法の執行を為しえない、という状況が生じはじめているのです。その象徴的な意味をもっているのが、死刑問題です。
二〇〇六年に最高裁から差し戻され、二〇〇八年に広島高裁で死刑判決がくだされた「山口県光市母子殺害事件」は、多くの人々の関心をあつめました。
テレビでも大きく取り上げられましたから、記憶されている方もたくさんいらっしゃるでしょう。
被害者の夫である本村洋さんは、長い苦しい裁判の過程で、冷静な抑制された口調で、被害者の心を語りつづけてくださいました。
しかしその裁判の過程の全体は、被害者である本村さんにとって、妻子が殺害されるという被害の事実だけでなく、その上になお苦痛を加える過酷なものでした。
なぜ、本村さんはあれほどの苦労を強いられなければならなかったのでしょう。
それは、戦わなければならない相手が、加害者だけではなかったからです。
加害者の死刑を求める本村さんの前に、「死刑廃止論」に立つ人々が、大きな障害として立ちはだかったのです。
あの裁判の内容はテレビでも報道され、加害者の元少年を擁護する弁護団の主張もマスコミによってくわしく紹介されました。
それを聞きながら、どうしてあんな奇妙な論理をもちだすことができるのか?と不思議に思った人も多いでしょう(注2)。
それはひとえに、「死刑廃止」を絶対の善として、逆にいえば「死刑の存続」を絶対の悪として考えるがゆえに、
「死刑」判決を出させない為にはどんなことでもする、どんな手段を用いても、どんなに不合理な理由をつけ、どんなに奇妙な詭弁を弄しても、
「死刑」判決を阻止しようと彼ら(弁護団の人々)が考えたためでしょう。
あの弁護団の主張と態度は、「死刑問題」を考えるうえで、「死刑廃止論」に立つ人々にとっても大きな汚点として記憶されるべきものですが、
「死刑廃止論」のすべてがあのような非常識なものであると、決めつけることはできません。
そこには傾聴すべき立派な論理もあり、また国際的には大きな潮流となって、国連でも一九八九年に「死刑廃止条約」が五九カ国の賛成によって採択されています(注3)。
わたしたち一般の日本人にとっては、これまであまり考えたことのなかった問題が、きちんと考えなければならない問題として、
目の前に突きつけられることになったのです。
テレビでも大きく取り上げられましたから、記憶されている方もたくさんいらっしゃるでしょう。
被害者の夫である本村洋さんは、長い苦しい裁判の過程で、冷静な抑制された口調で、被害者の心を語りつづけてくださいました。
しかしその裁判の過程の全体は、被害者である本村さんにとって、妻子が殺害されるという被害の事実だけでなく、その上になお苦痛を加える過酷なものでした。
なぜ、本村さんはあれほどの苦労を強いられなければならなかったのでしょう。
それは、戦わなければならない相手が、加害者だけではなかったからです。
加害者の死刑を求める本村さんの前に、「死刑廃止論」に立つ人々が、大きな障害として立ちはだかったのです。
あの裁判の内容はテレビでも報道され、加害者の元少年を擁護する弁護団の主張もマスコミによってくわしく紹介されました。
それを聞きながら、どうしてあんな奇妙な論理をもちだすことができるのか?と不思議に思った人も多いでしょう(注2)。
それはひとえに、「死刑廃止」を絶対の善として、逆にいえば「死刑の存続」を絶対の悪として考えるがゆえに、
「死刑」判決を出させない為にはどんなことでもする、どんな手段を用いても、どんなに不合理な理由をつけ、どんなに奇妙な詭弁を弄しても、
「死刑」判決を阻止しようと彼ら(弁護団の人々)が考えたためでしょう。
あの弁護団の主張と態度は、「死刑問題」を考えるうえで、「死刑廃止論」に立つ人々にとっても大きな汚点として記憶されるべきものですが、
「死刑廃止論」のすべてがあのような非常識なものであると、決めつけることはできません。
そこには傾聴すべき立派な論理もあり、また国際的には大きな潮流となって、国連でも一九八九年に「死刑廃止条約」が五九カ国の賛成によって採択されています(注3)。
わたしたち一般の日本人にとっては、これまであまり考えたことのなかった問題が、きちんと考えなければならない問題として、
目の前に突きつけられることになったのです。
私自身は、現在の日本社会の現実の中では、「死刑制度の廃止」は、わたしたちの「いのちの尊厳」を護ることは出来ず、
むしろ崩壊させていく危険をもっていると考えています。
もちろん、私も死刑というような刑罰を必要としない社会を望んでいますし、日本の多くの人々は同じ思いでしょう。
私たちは、私たちがお互いに相手の「いのち」を尊重し、傷けることのない社会を望んでいます。
しかし現実には、罪のない人々がいともたやすく殺害され、幼い子供たちのいのちが理由なく踏みにじられる事件が次々に起こっています。
わたしたちの社会において、「いのちの尊厳」はすでに崩壊をはじめている、と考えなければならないのかも知れません。
そのような現実のなかで、あらかじめ「死刑」という判決のくだされる可能性を全く排除してしまうことは、どのような残虐な事件を引き起こしても、
その引き起こした本人の「いのち」だけは必ず護る、ということを意味します。
それは、私たちの社会に生きるすべての人の「いのち」を必ず護る、ということを意味しません。
そうではなく、殺されてしまった人は仕方ないが、殺した者の「いのち」だけは、わたしたちの社会が全力をあげて守りとおす、
ということを意味します(その極端な姿が、あの山口・母子殺害事件の弁護団がとった態度と論術であったのです)。
むしろ崩壊させていく危険をもっていると考えています。
もちろん、私も死刑というような刑罰を必要としない社会を望んでいますし、日本の多くの人々は同じ思いでしょう。
私たちは、私たちがお互いに相手の「いのち」を尊重し、傷けることのない社会を望んでいます。
しかし現実には、罪のない人々がいともたやすく殺害され、幼い子供たちのいのちが理由なく踏みにじられる事件が次々に起こっています。
わたしたちの社会において、「いのちの尊厳」はすでに崩壊をはじめている、と考えなければならないのかも知れません。
そのような現実のなかで、あらかじめ「死刑」という判決のくだされる可能性を全く排除してしまうことは、どのような残虐な事件を引き起こしても、
その引き起こした本人の「いのち」だけは必ず護る、ということを意味します。
それは、私たちの社会に生きるすべての人の「いのち」を必ず護る、ということを意味しません。
そうではなく、殺されてしまった人は仕方ないが、殺した者の「いのち」だけは、わたしたちの社会が全力をあげて守りとおす、
ということを意味します(その極端な姿が、あの山口・母子殺害事件の弁護団がとった態度と論術であったのです)。
「わたしたちが共に生きる世界」において、わたしたちがお互いの「いのち」を本当に護るとはどういうことなのかを、ご一緒に考えていきたいと思います。
(注1)萩原金美『続・裁判法の考え方司法改革を考える』判例タイムス社〔二〇〇〇年〕八八~八九頁参照
(注2)山口・母子殺害事件の概要と弁護団の主張については、第 章を参照してください。
(注3)日本はこの条約に反対し、現在も批准していません。(『死刑存廃論の系譜』三八三頁)
(注2)山口・母子殺害事件の概要と弁護団の主張については、第 章を参照してください。
(注3)日本はこの条約に反対し、現在も批准していません。(『死刑存廃論の系譜』三八三頁)
第1章 死刑問題をめぐる論点
一、廃止論と存置論
1.現代日本における、死刑問題の現状
2.マスコミ・宗教団体・その他の論調
3.廃止論に立つ人々
法律関係者・ジャーナリスト・政治家・作家・宗教者
4.存置論に立つ人々
法律関係者・ジャーナリスト・政治家・作家・宗教者
5.中立の人々
6.国際的な潮流
ではつぎに、廃止論と存置論のそれぞれを、もうすこしくわしく見ていきましょう。
二、死刑制度廃止の主張
1.アムネスティ・インターナショナルの主張
三、死刑制度存置の主張
第2章 法の思想
1、法はなぜ必要か
カント・ベッカリーア・イエーリング・
ハナ・アーレントの「暴力について」
2.抑圧的な体制をもつ国々の死刑
第3章 「赦し」と「裁き」
○「かばいだて」の論理と行動
アジャセに罪はないと説く人々
仏教にもキリスト教にもある、論理の逸脱。
教えの曲解
詭弁と誤解
無惨な事件の数々
第4章 救いと責任
○救いの構造
キリスト教の「救い」
ヒンドゥー教の「救い」
仏教の「救い」
○償いを求める権利(報復・復讐ではなく、尊厳の回復権)
「恨」の神学
「赦し」はどこで成り立つのか
被害者の救済
○「誓う」責任
いのちは「誓い」において尊い
加害者の責任と救済
社会の責任
第6章 日本の裁判の問題点
冤罪は決して生んではいけない
裁判員制度の問題点
結びに