対抗論文 「偽ってはならない」

  『偽ってはならない』浅田正作先生著『念仏詩文集 枯草独語』絶版回収処分に対する対抗意見  
            「浅田正作先生の名誉回復を願う会」代表
             真宗大谷派東京教区横浜組高明寺住職  三木悟
〔一〕経緯
 真宗大谷派は、真宗大谷派出版部(東本願寺出版部)より、『念仏詩文集 枯草独語』(浅田正作著)を
二〇〇七年一〇月一日に発行しました。しかし、その本文中「山口県光市で起きた母子殺害事件に係る
裁判等に関して書かれた内容に重大な事実誤認」があったこと、またそれに基づく記述が「同裁判の
弁護人である安田好弘弁護士に対する言われなき非難であり、安田氏の人格を著しく傷つけるもの」であったこと、
さらに「出版当時、進行中であった裁判の被告人や弁護人についてマスコミの報道を鵜呑みにし、
断定した見解を示すなど問題記述があった」として、同年一〇月六日に頒布を停止し、絶版処分としました。
 しかしながら、その前提として示された「著者と問題内容を確認のうえ」という説明が事実と異なることを確認した上で、
「浅田正作先生の名誉回復を願う会」代表三木悟は、二〇〇九年五月七日付けで、
真宗大谷派宗務総長安原晃氏宛に『公開質問状ならびに要望書』を送付しました。
その趣旨を要約すれば、以下のようなものでした。

●絶版回収という今回の処分は、極めて重大な思想統制行為であること。
宗教教団である以上、宗門の根本理念に反する言論を認めないのは当然だが、
問題は、その決定が充分な検証の下に為されたかどうかということ。

●宗門に属するわれわれ僧侶、門徒に知らされたのは、平成二十一年『真宗』誌三月号に発表された
「『念仏詩文集 枯草独語』発刊に係るお詫びと回収のお願い」(以下「回収のお願い」と表記)だけであり、
ここには処分の理由となった当の文章も、その処分の妥当性を判断すべき、何らの理路も示されてはいない。

●したがって、その処分の理由となった文章の当該箇所を公開してほしい。
次いで、その当該文章が、宗門の根本理念に反するかあるいはそれに相当するほど
重大な違反であると判断した根拠と、その理路を開示してほしい。 

●その上で、開示されたその根拠と理路を、一部の者が勝手に決めつけるのではなく、
真宗大谷派のサンガ全体で検証すべきものと考える。
したがって、処分相当と判断した立場からの論述と、
それに対抗する弁護側の論述とを『真宗』誌と『同朋新聞』紙に公開することを要望する。


 これに対し、二〇〇九年五月二八日付で、真宗大谷派宗務所出版部長名にて、回答が寄せられました。
内容は添付のとおりであり、処分の理由となった文章の当該箇所の公開も、
その理路の開示も行う意思のないことが表明されています。
ここをもって、「浅田正作先生の名誉回復を願う会」代表三木悟は、真宗大谷派宗門によっても、出版部によっても、
今回の問題における「事柄の本質」が理解されていないと判断しました。
よって、「出版活動の責任を担う宗派(出版部)の責任」において絶版処分が下された、
その理由と想像される当該文章を宗門外に公表し、処分の不当であることを、
第三者たる宗門外の報道機関を通して訴えることを決意しました。

〔二〕「『念仏詩文集 枯草独語』発刊に係るお詫びと回収のお願い」ならびに、
「公開質問状」に対する真宗大谷派宗務所出版部長名による回答

 *当該文章を引用します。


●「『念仏詩文集 枯草独語』発刊に係るお詫びと回収のお願い」

「真宗大谷派宗務所出版部(東本願寺出版部)より、2007年10月1日に発行いたしました
『念仏詩文集 枯草独語』(浅田正作著)の頒布停止と回収にあたり、ご購入いただきました
皆様ならびに関係者各位に対しまして、ご迷惑をおかけいたしましたことを深くお詫び申し上げます。
 『念仏詩文集 枯草独語』の本文中、山口県光市で起きた母子殺害事件に係る裁判等に関して
書かれた内容に重大な事実誤認がありました。
それに基づく記述は、同裁判の弁護人である安田好弘弁護士に対する言われなき非難であり、
安田氏の人格を著しく傷つけるものでありました。
また出版当時、進行中であった裁判の被告人や弁護人についてマスコミの報道を鵜呑みにし、
断定した見解を示すなどの問題記述がありました。
このような理由から、同年10月6日に頒布を停止し、著者と問題内容を確認のうえ絶版といたしました。
あわせて、購入された方々には回収の協力をお願いいたしました。
 本来、宗派の出版活動は、真宗の教えを社会に発信し、社会や宗門のもつ課題の共有化を目指すことが使命であります。
しかしながら、今回の問題記述につきまして、出版部における編集校正の段階において確認作業を行いながらも
見過ごしてしまいましたことは、全く申し開きのできないことであります。
編集に携わるものとして、裁判制度や弁護士の職務に対する認識不足もさることながら、
憶測や思い込みなどにより、事件の本質を見失っていたことは否めません。
 さらに当派において、これまで死刑が執行されるたびに宗務総長名をもって
「死刑執行の停止、死刑廃止を求める声明」を表明してきたにもかかわらず、
このような事態にいたりましたことは声明とその取り組みの内実が伴っていないあり方を露呈したことであります。
 今後、改めて出版部に課せられた使命を再確認し、編集体制の充実を図るとともに
その使命を果たすべく宗門の出版活動に取り組んでまいる所存であります。
 また、これまで当書籍を購入いただいた方々に回収への協力をお願いしてまいりましたが、
現在すべてを回収するには至っておりません。つきましては、当書籍をお持ちの方がおられましたら、
上記の意をお汲み取りいただき回収にご協力くださいますよう重ねてお願い申し上げます。(出版部)」

 *以下、回収書籍の送付先として、真宗大谷派宗務所出版部の住所が記されています。

●「公開質問状」に対する真宗大谷派宗務所出版部長名による回答

*以下の様式で回答が送付されました。

                        出版部第89号
                        2009年5月28日
 真宗大谷派東京教区横浜組
  高明寺住職 三木 悟 様
                    真宗大谷派宗務所
                      出版部長 鷲尾幸雄

 「真宗大谷派宗門に対する公開質問状ならびに要望書」について(回答)


拝復 平素は、ご健勝にて為法精進のことと拝察いたします。
 過日、宗務総長宛の標記書面を拝見いたしました。
宗派出版部の編集・発行に携わっております立場から回答させていただきます。
 まず是非ともご理解を賜りたいことは、当派の機関誌である『真宗』誌の3月号に
掲載の「『念仏詩文集 枯草独語』発刊に係るお詫びと回収のお願い」に記載いたしました
頒布停止・回収及び絶版につきましては、決して著者に対する処分という意図ではないということでございます。
 あくまでも、編集・発行を行った宗派(出版部)の責任を明確にするとともに、
安田好弘弁護士をはじめ関係者へのご迷惑を最小限にとどめなければならないという判断による
措置として行ったことであります。
したがいまして、著者の名誉を障つけたり、その歩みを否定したりするというような意図は全くございません。
むしろ、頒布停止・回収・絶版の措置を高じなかった場合には、
結果として、ご懸念のようなことにもなりかねないとも思慮いたしたことであります。
今回の問題は、あくまで出版活動の責任を担う宗派(出版部)の責任として受け止めております。
 したがいまして問題と受け止めております記述内容は、関係の方に更にご迷惑が及ぶことでございますので、
『真宗』誌3月号に掲載した以上の公表はできませんのでご理解を賜りたく存じます。
 なお、上記の内容につきましては、改めて著者と面談のうえ確認をさせていただいておりますことを申し添えます。
 今後、今回の問題を通して問われました責任と課題を真摯に受け止め、
出版活動に取り組んでまいりたいと存じますので何卒よろしくお願い申し上げます。
                                  敬具

〔三〕真宗大谷派によって絶版処分が下された理由と想像される当該文章

 *浅田正作先生ご本人よりお借りした『念仏詩文集 枯草独語』〔東本願寺発行・二〇〇七年〕から、
当該文章を抜粋します。

以下の部分が問題視されたと思われます。

「平成十八年四月二十日      
 
 一九九九年に山口県で起きた、母子殺害事件で殺人の罪に問われた当時十八歳の少年だった被告(25)の
裁判の弁論が十八日、最高裁第三小法廷(浜田邦夫裁判長)で開かれた。
 先月の弁論期日に出廷しなかった弁護人の安田好弘弁護士らが「一、二審判決には事実誤認がある」と、
弁論の続行を求めたが、同小法廷は認めず、追加の主張は一か月以内に書面で提出するよう求めて結審した。
 以上は、十九日の北國新聞朝刊・社会二面の記事である。民法のテレビ番組でも、妻子を殺されて七年、
謝罪の言葉もなかった被告人への憎悪と復習に燃える夫が極刑を望み、
一方では加害者の弁護士が、被告人の殺意を否定していることなどが報じられている。
 なんと痛ましい、救われようのない裁判が七年もつづけられてきたことであろうか。
すべてはこの弁護人の恣意による不誠実な対応によって、時間と国費が浪費され、
人間不在の裁判が不当に長期化されてきたとしか思われない。
 ようやく、同小法廷が弁論を開いたことから、一、二審の無期懲役判決が見直される可能性があると報じられている。
けれども、この裁判の弁護士が死刑廃止論者であり、これまでも、その詐術にも等しい弁論で、
幾多の凶悪犯の極刑を免れさせて来ている。
 この弁護士は、弁護士である前に人間であることを忘れているようである。
人間に生まれながら人間の心を失い、人間が決めた六法全書から生まれた、法律の化け物となっていると思われる。
人間の温かい体温など持ち合わせていない冷血漢に、愛しい妻子を殺された遺族の、悲痛な叫びなど聞こえないであろう。
 おそらく、その少年がおのれの罪を認めようとせず、被害者の遺族に一言の謝罪の言葉もなく、
友達宛に司法の権威に挑戦するような手紙などを書く裏には、この弁護士の教唆があったのではないかと疑われてくる。

 今の司法制度では望むべくもないと思う。しかし、若しこれが人間の心を持った弁護士なら、その殺意の有無に関わらず、
先ず始めに被告人に犯した罪の重大性を認識させ、誠意をもって被害者の遺族への謝罪を進め、
被告人と共に被害者の遺族へ許しを請い、そのうえで情状酌量を願う弁護をするのではなかろうか。
 その加害者の一滴の涙が、懺悔の慟哭が、どれ程被害者の遺族や裁判官の心証に影響するかわからない。
法の裁きにも涙があることを私は信じたい。
 古来より、わが国には罪を憎んで人を憎まずという言葉があった。
それは、罪を犯した人間の心からの謝罪の言葉と、涙の慟哭があったからであろう。
そこにこそ、互いに仇敵同士が恩讐を超える道も開かれていたと思う。
 人間一人一人の命はかけがえのないものであり、、死刑のない平和な社会は誰しもが望むところであろう。
しかしそのかけがえのない命が、それも無抵抗な婦女や幼い命が無造作に奪われ、
あるいは血を分けた親と子が、憎悪の果てに殺し合うなど、血なまぐさい事件が後を絶たないのはどうしてだろうか。
 悲しいことではある。けれどもこれが、我々の現に生きている世界の実相ではないのか。
有史以来、人の世に殺戮や戦争のなかった時代があったろうか。
科学技述の進歩につれ、世の中は昔の面影がないほど豊かに便利になった。
 しかしそれで、人間の心はどうなったのか。衣食足りながら、礼節に乏しく、無慙無愧、無軌道三昧の人間が巷にあふれてきた。
人の世を覆う混迷の闇は、いよいよ混沌としてその深さを増すばかりである。どこに明るい未来の展望があるのだろうか。
 このことを既に、千六百年もの遠い昔、聖徳太子は「世間虚仮、唯仏是真」と仰せになった。
この真言を受けられ、親鸞さまは「ただ念仏のみぞまことにておわします」とお述べになられた。
念仏は如来からの戴きもの、念仏は人間の知恵から出るそらごと、たわごとではなかった。
 それを他力回向と知らされたのである。念仏が忘れられていることが、世の乱れの根っこにあるのではないのか。
私もその中の一人、泥沼のような八十年を生かされて、ようやく「念仏一つ」が、命よりも大事なものとなった幸せが思われる。
 この虚仮不実の身が、合掌礼拝して念仏が申されることの不思議さよ。なんと有難い、勿体ない、お陰さまではなかろうか。
この愚痴きわまりなき人間が、念仏のお陰さまで、人の世の悲しさを知り、喜びを味わうことができるのである。
 念仏なければ、倫理も道徳も虚仮の行となり、念仏あればこそ、人は礼節や仁義を知るのではなかろうか。」

 

以上の文章です。

〔四〕回答に「改めて著者と面談のうえ確認」したとある点について。

 宗門による「頒布停止・回収・絶版」処分について、著者と面談のうえ、私も確認いたしました。
先生は「絶版」処分自体を宗派から知らされていませんでしたし、当然、同意もしておられません。
私が宗務総長宛に提出した「公開質問状」の発送後に、出版部より再度浅田先生に対して圧力がかかったとのことです。
先生は体調を悪くされて、現在は面会もできない状況です。(2009年6月現在)

〔五〕処分の不当であることを主張する論述


 一、事実の誤認について

 私の認識しているかぎりでは、安田弁護士は、「殺人、強姦致死、窃盗」の罪に問われた元少年を無期懲役とした
一、二審で事実を争わなかった弁護人に代わって、上告審の途中で就任した弁護団の団長です。
したがってこの裁判の当初から弁護人であったわけではありませんから、
「すべてはこの弁護人の恣意による不誠実な対応によって、時間と国費が浪費され」たとする
浅田先生の記述は一部「事実誤認」でしょう。
 しかし最高裁の指定した弁論の期日が、安田弁護士の都合によって延期されたという認識は私にもあります。
安田弁護士の側ではこれに対して「山口県母子殺害事件の二審弁護士が、
今後の弁護を安田氏に依頼したいと最高裁に伝えたのが二〇〇五年一二月。
実際に安田氏が被告本人に面接できたのが二〇〇六年二月下旬。
一般的に開廷の期日は三者協議(裁判所、検察、弁護士)で決めるのが通例であるのに、
最高裁は一方的に開廷の期日を三月一四日に指定してきた。
その期日までに数千ページの資料を調べ、弁護の方針を立てることは物理的に無理なので、延期を希望したが、
最高裁は拒否。仕方なく欠席を選んだ」と主張しているようです。
しかしこの裁判は、二審から三年以上が経過し、原告側が待ちに待った最高裁における弁論が
ようやく開始されるという事情のもとにあり、最高裁が以前から決定されていた三月一四日という
開廷期日を延期しなかったことに、不当性はありません。
弁護の準備ができていないというのは、直前になって交代した弁護人側の一方的な都合であり、
自らがとった戦術に対して弁護人側が当然負うべきリスクです。
 いずれにせよ、安田弁護士の欠席が最高裁の審理を遅らせたのは事実であり、
それを「事実誤認」とみなすことはできません。
またそれに対する正当性の解釈は両論あるのであって、どちらか一方のみを正当とするならば、
その根拠を示さなければなりません。
 また「これまでも、その詐術にも等しい弁論で、幾多の凶悪犯の極刑を免れさせて来ている。」という記述が
問題になった可能性もありますが、それに関して私の知る範囲でいえば、
安田弁護士は以下の事件等々の弁護人になっています。

●四谷交番クリスマスツリー爆弾事件。一九八〇年より弁護人。判決は無期懲役。
●北海道庁爆破事件。一九八三年より弁護人。判決は死刑。再審請求するも棄却。
●宇都宮病院事件。一九八四年より、リンチ殺人の被告人とされた宇都宮病院の院長および看護士ら五名の弁護人。
●山梨幼児誘拐殺人事件。一九八五年より、控訴審から弁護人。一審判決は死刑。控訴審判決は無期懲役。
●ダッカ日航機ハイジャック事件。一九八七年より、被告人・丸岡修の弁護人。判決は無期懲役。
●山岳ベース事件・あさま山荘事件。一九九〇年代、被告人・坂口弘の弁護人。
●名古屋アベック殺人事件。一九九六年より、被告人(主犯少年ら)の弁護人。一審判決は主犯につき死刑。控訴審判決は、無期懲役。
●オウム真理教事件。一九九五年より、オウム真理教教祖麻原彰晃(本名・松本智津夫)の国選弁護人。
解任後、私選弁護人(主任弁護人)となる。二〇〇六年九月一五日、最高裁判所は特別抗告を棄却し、原判決の死刑判決が確定した。
●光市母子殺害事件。二〇〇六年より、上告審から弁護人。
上告審において、原審(控訴審)の無期懲役判決が破棄され、原裁判所(広島高裁)に差戻された。
差戻後の広島高裁は死刑判決を下した。

 『回収のお願い』は「マスコミ報道の鵜呑み」を非難していますが、これらの私の認識も、
二〇〇八年四月二一日付『朝日新聞』朝刊、その他の新聞・雑誌・書籍・インターネット等の記事によるものですから、
いわば「マスコミ報道の鵜呑み」でしょう。それが認められないのであれば、私にも事実の確認は不可能です。
したがって、マスコミ報道によるのでもなく、ミニ・コミや当事者の一方の言説を「鵜呑み」にしたのでもない、
確実な証拠にもとづいたなんらかの「事実」を宗門は把握しており、そのなんらかの「事実」に基づいて、
浅田先生のなんらかの記述を「事実誤認」としたはずですが、その「事実」も「誤認」の内容も宗門が提出していない以上、
「事実誤認」の責めは根拠をもちません。処分理由にある「事実の誤認」については、これだけを言えば足ります。

 またもし、そのような事実の誤認があった時は、第一に、安田弁護士自身が自身の著作や雑誌等で反駁すればいいのであり、
宗門としては、読者から「事実誤認」の指適があったときは、その「事実」を確認した上で誠実に謝罪をすればよいだけです。
出版物における事実の誤認はしばしばあることですが、それによって絶版になるという例は稀です。
絶版までして守らなければならない「事実」がもしあるとするならば、その証明責任はひとえに宗門にあるのであり、
その開示要求に応じなかった以上、宗門はその責任を放棄したことになります。

 二、弁護士への批判について


 「裁判にとって真実は、何より大切な前提であり、真実を前提としない裁判は、あらゆる不正より、一層不正である。」(注1)
 いかなる凶悪犯罪の加害者であろうと弁護される権利があり、その弁護行為自体は批判されるべきではありません。
それは何人も真実に基づかない断罪を受けてはならないからです。
その意味では、誰も引受けたがらない凶悪事件の数々をすすんで引受ける安田氏の活動は立派であり、
賞讃にさえ値するかのようにも思われます。
しかしそれは、その活動がどこまでも真実を解明しようとする姿勢に貫かれているかぎりにおいてです。
 弁護士は、その発言が法廷内における弁護活動によるものであるかぎり、どのような発言をしても法的に罰せられることはありません
。どのような詭弁を用いても、詐術に等しい論法を駆使しても罰せられることがないのです。
だからこそ、その弁護行為の公明と誠実が、国民によって厳しく監視されなければなりません。
そうでなければ、被告が権力をもつ者であったり多額の資産を有する者であったりする場合における弁護士の利害によって、
あるいはその弁護士の個人的な信念や意図によって、被告にとって不当に有利な判決が導かれる恐れがあるからです。

 したがって弁護士は、その弁護活動に関するものであるかぎりは、どのような批判も非難も甘んじて受けなければなりません。
それが法廷内の発言が罰せられないという特権を有することの前提なのです。
したがって弁護士に対する批判や非難は、その弁護活動に関するものであるかぎり、名誉の毀損を構成しません。
社会的に影響力のある事件の裁判においてはなおさら、呵責のない批判が、思想・表現の自由と、
不正な弁護活動を防止する国民の責任として、許されなければならないのです。
 同じことは、裁判官や検察官、また時の法務大臣に対しても当てはまります。
かって朝日新聞の「素粒子」が、時の法務大臣を「死神」と非難した際(注2)にも、
読者からの多数の批判によって執筆担当者は釈明をしました(注3)が、法的に罰せられることはありませんでした。
時の法務大臣が、あえて朝日新聞や「素粒子」担当者を「名誉毀損」で告訴するという愚行をおかさなかったのも、
それを承知していたからでしょう。

 「弁護士法」の第一条は、このように規定しています。
「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。
2 弁護士は、前項の使命に基き、誠実にその職務を行い、社会秩序の維持及び法律制度の改善に努力しなければならない。」
またその第五八条には「何人も、弁護士又は弁護士法人について懲戒の事由があると思料するときは、その事由の説明を添えて、
その弁護士又は弁護士法人の所属弁護士会にこれを懲戒することを求めることができる。」
このように、弁護士の活動を監視し批判することは何人にも許された権利であり、国民にはその懲戒を求める権利が与えられています。
事実、退けられはしましたが、この裁判に係わる安田弁護士の弁護活動については、原告である本村洋氏や、
同じ弁護士、また一般の国民らによって第二東京弁護士会に対し懲戒請求が出されました。
ただし同じ職能集団内の倫理規定は、身内には甘くなりがちです。だからこそ、第三者である国民の監視と言論が必要なのです。
 『回収のお願い』には、出版部の反省として「編集に携わるものとして裁判制度や弁護士の職務に対する認識不足もさることながら」
とありましたが、宗門と出版部に本当に必要なのは、弁護士もまた時には批判されるべき存在であり、その批判の封殺こそが
「裁判制度や弁護士の職務に対する認識の欠如」なのだという、自覚と自己批判です。


*(注1)大野正男(元最高裁判所判事・弁護士)『社会のなかの裁判』有斐閣〔一九九八年〕(二八三頁)
*(注2)『朝日新聞』二〇〇八年六月十八日(夕刊)〔素粒子〕
*(注3)『朝日新聞』二〇〇八年六月二一日(夕刊)〔素粒子〕
 

 三、安田弁護士の弁護活動に対する批判


 私自身の、「山口県光市で起きた母子殺害事件に係る裁判」における安田弁護士の弁護活動に対する批判は、
最高裁の差戻決定を受けて広島高裁が言い渡した判決文におけるものとほぼ同様です。
浅田先生による安田弁護士の弁護活動に対する批判も、ほぼ同様のものです。
広島高裁の判決にはこのように書かれています。「虚偽の弁解を展開して罪と向き合うことを放棄し、
遺族を愚弄する態度は反省とはほど遠い」(注1)。
一、二審までは事実を認めていたことを踏まえれば、そのような態度が、
上告審になって就任した新弁護団の方針によるものであるのは明らかでしょう。
裁判長のことばは弁護団に対してこそ一層ふさわしいのであり、
事実その判決は、被告にそのような態度をとらしめた弁護団への指弾でもあるのです。

 たとえ高裁の判決であれ最高裁の判決であれ、国民はこれを批判する権利がありますから、
真宗大谷派が広島高裁の判決を不当なものとして批判すること自体は、国家によって弾圧されるべきではありませんし、
それを主張する著作が国家によって絶版処分を受けるようなことは決してあってはなりません。
しかしもし真宗大谷派がそれを主張するのであれば、それは真宗大谷派の総意でなければならず、
教団の一部の者の独断であってはなりません。
然しながら、真宗大谷派は、それを宗門の総意とみなすことを保証する
いかなる手続きもふまえてはいません(この裁判に関する意見を宗門の全体に尋ねたことは一度もありません)。
そのことを明瞭にした上で、安田弁護士の弁護活動に対する批判をいま少し、紙数に限りがありますから、簡単に指適しておきます。

 安田弁護士は、「死刑廃止論者」のリーダー的存在といわれています。
「光市母子殺人事件」における氏の、常識では理解しえない弁護の論理は、
「死刑」という絶対悪を阻止する為なら、どのような詭弁を用いても、
詐術に等しい論法を駆使しても許されると考えたために選ばれた手段なのかも知れません。
それは彼なりの信念に基づいているのでしょう。
また裁判に係わる人たちは、検察側も弁護側も、相手にどう対抗するか、
相手の戦術に対してどういう戦術を用いるかが最大の関心事になりがちです。
そのために、真実にどう向き合うかではなく、勝つためにはどうするかだけを考えることになります。
裁判が真実解明の場ではなく、互いの目的達成のための、たんなる戦術闘争の場になるのです。
その目的が絶対化されれば、どのような戦術を用いてもかまわないと考える人が出てくるのは、ある意味必然です。
私は彼の人格を貶めるつもりはありません。しかしその思想と論理は、厳しく批判しておかなければなりません。

 もし「死刑」を免れることのみが「救い」ならば、
宗祖親鸞聖人が『教行信証』に引用されている『涅槃経』の阿闍世(あじゃせ)は、はじめから救われていることになります。
国王である阿闍世に「死刑」を求刑する者はいませんでした。それでも、阿闍世は救われなかったのです
その阿闍世に対し、六人の論師が、「あなたに罪はない」とさまざまの理屈を駆使して慰めようとします。
それはちょうど安田弁護士が、この裁判において用いた弁論を彷彿とさせます。


 真宗大谷派発行の『真宗聖典』にもとづいて論述しましょう。二五二頁五行目から二五七頁六行目まで、
宗祖親鸞聖人の『教行信証』〔信文類(信の巻)〕のいわゆる「抑止文釈」に引用された『涅槃経』の文です。

 「また言(のたま)わく、その時に、王舎大城に阿闍世王(あじゃせおう)あり、
その性(しょう)弊悪(へいあく)にしてよく殺戮(せつろく)を行ず。
口の四悪、貪・恚・愚痴を具して、その心熾盛(しじょう)なり。
(……)しかるに眷属のために現世の五欲の楽に貪着するがゆえに、父の王辜(つみ)なきに横(おう)に逆害を加す。
父を害するに因って、己(おのれ)が心に悔熱を生ず。(……)心悔熱するがゆえに、遍体に瘡(かさ)を生ず。
その瘡臭穢(しゅうえ)にして附近(ふごん)すべからず。
すなわち自ら念言すらく、「我今この身にすでに華報を受けたり、地獄の果報、将に近づきて遠からずとす。」
その時に、その母韋提希后(いだいけこう)、種々の薬をもってためにこれを塗る。
その瘡ついに増すれども降損(ごうそん)あることなし。
王すなわち母に白(もう)さく、「かくのごときの瘡は、心よりして生ぜり。四大より起これるにあらず。
もし衆生よく治することありと言わば、この処(ことわり)あることなけん。」

 これを現代語に訳します。

 「またその時、ラージャグリハ国(王舎大城)に、アジャータシャトルという名の王(阿闍世王)がいました。
性格は凶暴で、動物を殺したり人間を殺したりすることを何とも思いませんでした。
人を罵倒したり嘘をついたりすることも平気で、欲深く、怒りんぼのくせに、いつも不平不満の心で一杯でした。
自分や自分の家族が思うさま楽ができるようにと、国の最高権力を求め、罪のない父王を殺して王座を奪いました。
しかし、やがて父を殺したことへの後悔の思いが生じ、後悔する心の熱が、
からだ中に臭い臭い瘡(かさ・膿をためた吹き出物)を生じさせました。
「これは父を殺した報いなのだ。これはもうすぐ私が死んで、必ず地獄に堕ちるという徴(しるし)なのだ」
その時、母親であるヴァイデーヒー后(韋提希后)はいろいろな薬を塗って治そうとしましたが、瘡は増えるばかりでした。
王は母に言います。「この瘡は心の病から生まれたのであって、身体の病ではないのです。
だから誰も治せるはずがないのです」と。

 以下六人の大臣がそれぞれに、苦しむ王の「罪の意識」そのものを否定しようとして、六人の論師の説を紹介します。
すでに述べたように、それこそは安田弁護士の弁論を彷彿とさせるものですから、真宗を学ぶ人たちは特に、注意して読んでください。

 詳しく引用すると長くなりますので、要約します。 


●月称(がっしょう)大臣の弁論

 「王さま。あなたは五逆(父を殺すこと、母を殺すこと、など仏教においていわれる重大な罪(*注2)の者は
地獄に堕ちるという世間の説を信じて恐れておられますが、いったい誰が地獄を見てきたのですか。
そんなものは、ただ世間の「智者」を名のる者たちが、勝手に言ってるだけのことです。
王さま、今この国に「富闌那(ふらんな/プーラナ・カッサパ)」(注3)という先生がおられます。
この先生はこう仰っています。「悪業というものは存在しない。したがってその報いを受ける心配はない。
善業というものもない。だから善業が報われることもない。善悪の業がないのだから、善悪の報いもないのである。
優れた行いとか劣った行いということもないのだ。」どうぞこの先生の下へ行って、お心を安らかにしてください。」


●蔵徳(ぞうとく)大臣の弁論

 「王さま。法というものには二種類あるのです。一つには出家(坊さんたち)の法。二つには王法です。
王法というのは、父の王を殺しても罪にはならないのです。
虫だって、母親の腹を破って生まれてくる虫がいますが、この虫にどうして「母親殺し」の罪がありましょう。
それが生き物のならいなのですから、国を治める法は、そういうものでなければなりません。
父や兄を殺しても、罪としてはいけません。坊さんたちの法なら、蚊や蟻を殺しても罪になるのですがね。
末伽梨狗貝余梨子(まかりくしゃりし/マッカリ・ゴーサーラ)という先生がそう仰っています。
どうぞこの先生の下へ行って、お心を安らかにしてください。」


●実徳(じっとく)大臣の弁論

 「王さま。どんな人だって過去に悪いことをしてきたのです。
先代の王だって、昔悪いことをしたから、その報いで殺されたのかもしれません。
だったら王さまにも罪はありません。サンジャヤ・ヴェーラッティプッタという先生がいます。
どうぞこの先生の下へ行って、お心を安らかにしてください。」


●悉知義(しっちぎ)大臣の弁論

「王さま。昔ラーマという名の王がいました。この王は、父を殺して王位につきました。
他にもたくさん父殺しの王がいますが、誰も地獄に堕ちた者はいません。
現在にもたくさん父殺しの王がいますが、誰もあなたのように悩んだり苦しんだりしてませんよ。
世の中には人間と動物の世界があるだけで、悪いことをしたら人間が動物に生まれ変わったり、
良いことをしたら動物が人間に生まれ変わったりなんてことはありゃしません。
アジタ・ケーサカンバラという先生がいます。どうぞこの先生の下へ行って、お心を安らかにしてください。」


●吉徳(きっとく)大臣の弁論

 「王さま。そんなに地獄を恐れておられるなら、私が地獄のご説明をいたしましょう。
地とは大地の地に名づけ、獄とは破ることをいいます。地獄を破って罪の報いがない、これを地獄というのであります。
また、地とは人に名づけ、獄とは天に名づけます。その父を殺すことによって人天に到る。
こういうわけで婆蘇(ばそ)仙人は、羊を殺して人天の楽しみを得るといっております。
(以下、白を黒と言い張り、東を西と言いくるめる詭弁が延々とつづく。)
カクダ・カッチャーヤナという先生がいます。どうぞこの先生の下へ行って、お心を安らかにしてください。」


●無所畏(むしょい)大臣の弁論

 「王さま。(その内容を親鸞聖人は省略しておられます)ニガンタ・ナータプッタという先生がいます。
どうぞこの先生の下へ行って、お心を安らかにしてください。」


 以上、六人の大臣がそれぞれの先生を王に勧めて、「お悩みめさるな」というわけですが、これを現代の「裁判」に譬えてみましょう。
 こういう理屈になります。

「A君。君は死んだら地獄に堕ちるんじゃないかって、心配してるのかい。
よせよ、死んだあとの地獄なんてものは坊さんとかアーメンの連中が言ってるだけのことで、現代人は誰も信じてやしない。
もちろん君も信じてやしない。だからそんなことは何も考える必要はないわけだ。
だいたい坊さんとかアーメンの連中にしたって、地獄を信じてる者なんて一人もいやしない。
問題は、今この世で、君が死刑にならないということだけだ。いいかい。悪だとか善だとかいうことを、いったい誰が決めるのかね。
何が凶悪で何が凶悪でないのかね。善も悪も、ほんとうのことは分からない。誰だって悪いことをする。
自分は悪いことをしないなんて思ってる連中は思い上がってるんだ。自分だって人を殺すかもしれないと思ったら、どうして人を責められる。
どうして人間が人間を裁くことができる。だから人を殺しても赤ん坊の首をしめても、君は裁かれる必要なんかないんだよ。
逆に、自分の妻や子供が殺されたからって、その相手を殺したいなんて、野蛮な奴じゃないか。
文明国では、そんなことは許されない。人の生命をなんだと思っているんだろうね。人の生命は尊い。そして平等なんだ。
「人を殺した」人の生命だって、平等に尊い。生命の価値は同じだ。死刑は国家による殺人であり、犯罪だ。
だから「死刑制度」廃止を勝ち取るまで、不屈の精神で戦いぬかなければならない。
被害者だって、きっといつかは分かってくれる。尊い人間の生命を奪ってはならない。
それがたとえ「人を殺した」人であろうと、自分の妻や子供を殺した人であろうと、それは決して許されないことなんだってね。
それが人権を守るという、ぼくたちに託された大事な責任であり、義務なんだよ。
いいかい、君が精神障害者だと認定できたり、一時的な心神喪失・耗弱だとかを主張できれば無罪をかち取ることもできる。
しかし今回は難しいから、君の精神年齢が五才程度だというところで頑張ってみよう。
それから君の家庭環境も、君の有利な情状として使おう。
まあ今の日本の裁判制度では、君の事件は無期懲役にできたら万歳というところだから、死刑だけは何としても阻止しよう。
ぼくも全力を尽くして頑張る。どんな手を使っても君を死刑にはさせない。だから君も一緒に頑張ろう。
まちがっても「死をもって償う」なんて考えを起こさないでくれよ。」

 それにつづいて『涅槃経』では、耆婆(ギバ/ジーヴァカ)という優れた医者が、王に向かって語ることばが出ています。
親鸞聖人ご自身が長々と引用されている大事なところですが、すでに充分に長い記述になりましたので、
詳細な考察は別の機会にゆずりましょう。かけ足で先にすすみます。ギバは言います。
「王さま。あなたは大きな罪を犯しました。しかし善いことには、それを深く悔いておられます。
諸仏世尊はみな常にこう教えてくださいます。<人間に真実の救いをもたらす、二つの清らかな法がある。
一つは「慚(ざん)」であり、二つには「愧(ぎ)」である。
慚とは自分がふたたび罪を作らぬことであり、愧とは人に教えて罪を作らせないことである。
また、慚とは自らかえりみて恥じることであり、愧とは人に向かって告白することである。
また、慚とは人に対して羞じることであり、愧とは天に対して羞じることである。これを慚愧という。
慚愧のない者は人とは名づけず、畜生という。
慚愧があるからよく父母・師長を敬い、慚愧があるから、
父母・兄弟・姉妹の関係もうるわしく結ばれるのである>と。」(二五七頁~二五八頁)


 『観無量寿経』では、月光大臣とともにギバは、母を殺そうとする阿闍世を
「人にあらず(「これチャンダーラ(人非人)なり」)と非難します。
 『涅槃経』でもまたギバは、偽りの弁護をする六師外道を非難し、
阿闍世王に対しては『慚愧なきものはこれを人とせず。これ畜生なり」と諌めました。

 宗祖がなぜ、阿闍世の物語りを取り上げられたのか。

 懺悔(さんげ慚愧よりもいっそう深い念仏の心として、真宗で教えられてきたはずのもの)なく、
ただ「死刑」を免れていることが救いならば、
宗祖が『教行信証』坂東本の信巻別序にあげている「父殺し」の王たちは、
みな救われている者たちです。
本当にそうか。それは偽りの救いではないか。
そういう宗祖の問いかけが、あの坂東本「信巻別序」に列記されている
(*したがって坂東本とは異なる西本願寺版の『教行信証』には列記されていません)国王の名なのではありませんか。

 親鸞聖人は、善導大師の『法事讃』のお言葉を引いて言われます。
「光明師(善導大師)の云わく、九十五種みな世を汚す、ただ仏の一道、独り清閑(しょうげん)なり」と。
また『涅槃経』の文を引いて「世尊常に説きたまわく、「一切の外(外道)は九十五種を学びて、みて悪道に趣(おもむ)く」。
さらにご自身のお言葉として、「「偽」と言うは、すなわち六十二見、九十五種の邪道これなり」と断じておられます。
 罪を「偽る」ことは、加害者本人をも、真実の救いから遠ざけてしまう。
それが、宗祖が『教行信証』をわれわれに届けてくださったことの、核心ともいえる教えなのではありませんか。


 懺悔なき生存を絶対化する安田氏の思想は、宗祖の教えと真向から対立し、その姿勢は宗祖が批判されたまさにその姿勢です。
したがって、安田弁護士の弁護行為への疑いを表明し、それを批判することは、
宗憲にも記されているように、宗門人が自らに担うべき使命と良心に基づく行為です。
敬意をもって遇されるべきでこそあれ、断じて遣責されるべきでなく、その言説は決して封じられてはなりません。
出版部は、浅田先生の名誉を傷つけるつもりはないし、今回の処置も浅田先生に対する処分ではないと言っていますが、
その言論の封殺と、「公開すればかえって先生の名誉を傷つけかねない」という決めつけこそが、
どのような弁解をもってしても否定しえない「名誉の毀損」なのです。
また出版部は、宗派(出版部)の責任において今回の処置をおこなったとしていますが、
浅田先生は宗派(出版部)の職員ではなく、その著作は宗派の意思とは独立した権利を有しています。
その絶版という処置は、浅田先生の真意による同意のもとにはじめて正当化されるのですが、
先生はこの処置に対して真意から「同意」してはおられません。

 以上の理由で私は、安田弁護士の弁護行為を擁護することは、宗門の根本理念に違反し、真宗念仏の教えに背く行為であると考えます。
安田弁護士絶対擁護の立場に立ってしまった、現宗門の姿勢こそが、本当は問われるべきなのです。
しかし私は、東本願寺の名による出版物において安田弁護士擁護の言論がなされたという理由で、その著作を絶版にすべきだとは考えません。
なぜなら、それは未だ真宗大谷派サンガ全体における共通の理解にはなっていないからであり、
絶版ではなく、サンガ全体の討議に付されるべき事柄だからです。
安田弁護士の弁護活動については、私自身、なお検証する必要があると考えています。
その活動が本当に「真実に奉仕」するものであるならば、これを批判するいわれはありません。
それは検証されるべきであり、安田弁護士擁護の言論は封殺されるべきではありません。
しかしそれと同様に、安田弁護士批判の言論も封殺されるべきではないのです。


*(注1)『朝日新聞』二〇〇八年四月二三日(朝刊)
*(注2)「大乗の五逆」と「小乗の五逆」と二種ありますが、
「大乗の五逆」のみをあげておきます。
「父を殺す。母を殺す。仏教の聖者を殺す。いたずらに教団の和合を乱す。仏陀の肉体を傷つけ出血させる」の五つとされています。
*(注3)六師外道の名前(サンスクリット語のカタカナ表記)については、増谷文雄『原始経典・阿含経』筑摩書房 88頁)を参照しました。

 四、浅田先生の著作について


 真宗大谷派の多くの先生方が引用されている、浅田正作先生の詩に、こんな詩があります。
「自分が可愛い ただそれだけで生きてきた それが深い悲しみとなったとき 違った世界が開けてきた」(『骨道を行く』法蔵館所収)
 浅田先生の詩はすべて、浅田先生が全人格をかけて受け取られてきた真宗念仏の信心に貫かれています。
今回絶版処分を受けた『念仏詩文集 枯草独語』における言語表現もまた同様です。
浅田先生がそこで語られているのは、つぎのことです。

 宗祖はいつ、自らの罪を偽れと、われらに教えたか。その真実を偽るなと、われらに教えてくださったのではないか。
罪悪深重の身に頭を垂れ、罪悪深重の身に懺悔せよと教えてくださったのではないか。
どこまでもわが身をかばい、「自分が可愛い、ただそれだけで生きてきた」身を地獄一定と教えてくださったのではないか。
その、どこまでもわが身をかばい、この世のいのちを渇愛する、この世のいのちだけを我がいのちとし、我がいのちだけをいのちとして、
如来のいのちを忘れ去り、踏みにじり、気づこうとしない。そういう身を罪悪深重の身と教えてくださったのではないか。
そして、その罪悪深重の身に死に、如来のいのちに生まれよと、教えてくださったのではないか。
それが如来の勅命であると、われらに告げてくださった、それがお念仏であると、われらに教えてくださったのではないか。
それが浄土の真宗であると、われらに教えてくださったのではないか。
 宗祖はいつ、罪を偽り、偽ってもこの世のいのちを永らえることが「救われること」であると、われらに教えたか。
自らを偽り、人をして偽わらしむることが、人を「救う」ことだと教えたか。
そのような偽りの救いを人類に捧げ、そのような偽りの救いを説くものを、真宗の善知識として仰げと、いつお命じになられたか。

 浅田先生は、そうわれわれに呼びかけてくださったのです。
「偽ってはならない」浅田先生が渾身の魂をこめて語って下さったのは、そのことです。
諸仏の叫びであり、如来の喚び声です。念仏申せ。その勅命です。

 

 五、死刑制度について

 
「死刑制度」はこれを継続しても、廃止しても、どちらにも問題が残ります。
どちらかを選べは問題がまったくなくなるという課題ではないのです。どちらを選べば、問題がより深刻になるのか。
どちらを選べは問題の深刻さを多少なりとも減じられるのか、というところで判断するほかにない課題です。
死刑を廃止すれば、すべての人の人権が守られる夢のように豊かな社会が実現するわけではありません。
むしろ悪夢のように悲惨な現実が、より悪夢の色を濃くする可能性もあるのです。
 「死刑」を絶対の悪とし、「死刑廃止」を絶対の善とする安田弁護士の思想と、それを擁護する人たち
そこには今回の絶版処分を下したわが大谷派教団の一部がふくまれるわけですがの思想。
そこからは、「死刑」さえ無くすことができれば、後は何をしてもいい、という不思議な論理が生まれます。
「死刑」さえ無くすことができれば、人を焼き殺してもいいし、赤ん坊の首を締めてもいい。嘘をついてもいい。
「さるべき業縁のもよおせば」人はどんなことでもしてしまうものなのだから、どうしてそれを責められよう。
それを責める人は、自分を「善人」と信じ、悪人の自覚がない人たちなのだ。
こうした発言が、今回の絶版処分を下したわが大谷派教団の一部だけでなく、
真宗に縁をもつ人々の多くの中から、なされることがあります。
昔から後を絶たない、真宗に独特の落とし穴です。
 「死刑」以外のすべての悪に対しては同情的であり、倫理的であろうとすることをかえって批判するにもかかわらず、
これらの人々が「死刑」に対してのみは限りなく倫理的であろうとするのは、何故でしょう。そこに矛盾はないのでしょうか。
 その問題に対する考察は、別の機会にゆずります。
それは今回の問題の主題ではなく、またその正否の検証は、日本においてまた国際社会において、
長い慎重な論議を必要とする事柄だからです。

 ただこのことだけは、真宗に縁をもつ人々は、自らの胸に問いかける必要があります。

 「殺したもの」にはいかなる倫理も求めず、「殺されたもの」にはかぎりなく崇高な倫理を要求する。
そこにある明かな矛盾を、どう克服するのか。
 <「殺したもの」にはいかなる倫理も求めず、「殺されたもの」にはかぎりなく崇高な倫理を要求する>
それこそが「善人」性の極み、究極の「偽善」なのではないかと。

 六、宗門の思想統制について


 宗門が、まったく思想統制を行わない、ということはできません。
 信仰共同体である以上、信仰の根本をゆるがす言動に関しては、これに統制力が発動されるのは、
ある場合には当然であり、ある場合には「やむをえない」でしょう。
しかしどのような場合に、その思想統制は許されるのか、という基準は明確でなければなりません。
 真宗大谷派教団においては、一九九八年六月の死刑執行(東京拘置所で三名執行)以来、
死刑囚が死刑執行されるたびに、宗務総長名で「死刑制度を問いなおし死刑執行の停止を求める声明」を出しています。
これはあくまでも「死刑制度を問いなお」すことを求めるものであって、
死刑廃止を主張しない者は宗門から排除する、という意味ではないはずです。
一九九二年に、大谷派は「真宗ブックレット『死刑制度と私たち』東本願寺」を出していますが、
そこでも「答えではなく問題提起」だと断っています。(注1)

 *(注1)「「真宗ブックレット」における種々の論稿や声は決して真宗大谷派としての答えではありません。
むしろ問題提起であります。これらの問題提起に対して読者の皆様の率直なご批判やご意見をお寄せいただきたいと思います。
そのことによってこの「真宗ブックレット」がより豊かなものとなることを念願しています。」
(真宗ブックレット『死刑制度と私たち』東本願寺〔一九九二年〕/「刊行のことば」)

 また二〇〇八年の七月号と八月号で、『同朋新聞』は「死刑問題」をテーマとして取り上げましたが、
ここでもまだ「死刑廃止」を絶対化してはいません。

 「死刑制度」については、今後、宗門内でも議論を尽くしていくべき問題であって、
現段階で、どちらか一方に決めつけるべきではありませんし、宗門もこれまではその姿勢を守ってきました。
すでに述べたように、宗務総長名によって出された声明は「死刑制度を問いなおし、死刑執行の停止を求める」というものでした。
そこでは「死刑廃止」は正面きって主張されているのではなく、「問いなおす」という慎重な留保がつけられています。
それがいつの間に、「死刑廃止」を絶対とすることになったのでしょう。
 「問いなおす」ということは「廃止」を前提として言っているのだと、いわれるかも知れません。そうだとしてみましょう。
 そうだとすれば、「死刑存置」が現在日本の多数意見であるにもかかわらず、
宗門はあえて少数意見である「死刑廃止」を掲げていることになります。
それは、
 「常識のなかにはその時代の安易な考え方や少数者の意見を無視した多数者の意見でしかない場合もある。」(注2)からでしょう。

 しかしそれはまったく同じ意味で、大谷派宗門の中における多数意見にもあてはまります。
「死刑廃止」が本当に大谷派宗門の多数意見なのかどうかは分かりません。なぜならそれは宗門の全体、サンガに問うたことがないからです。
私たちは、自分には意見を求められた覚えもないのに、いつの間にか宗門が「死刑廃止」の旗を掲げ、
いつの間にか「死刑廃止」を叫ばなければ真宗門徒ではないかのような雰囲気ができつつあることに、戸惑いを覚えます。
しかし仮にそれが宗門の意思であり、宗門内の多数者の常識であるとして、そこでも、
「常識のなかにはその時代の安易な考え方や少数者の意見を無視した多数者の意見でしかない場合もある」
という言葉は、同じようにあてはまります。


*(注2)大野正男『社会のなかの裁判』有斐閣〔一九九八年〕(二九三頁)
 

 七、犯罪被害者の声


 「死刑廃止」を強く主張することは、犯罪加害者の側に立ってものを考えるということを意味しています。
一方で、それらの主張において、犯罪被害者の声や痛みは充分に考えられているのでしょうか。
残念ながら、そのようにはなっていないといわざるを得ません。あまりにも一方的に、加害者の側に立つ発言のみが発信されているのではないでしょうか。
加害者の側に立つ考え方も必要です。しかしその前提には、被害者の声や痛みを充分に考えるということが必要です。
一つの主張を強く掲げようとする時には、対立する一方の主張は否定され、無視されていきがちです。それが「スローガン」の怖さです。

 「アメリカの構図が「被害者とコミュニティ」対「加害者」となっているのに対して、
日本の構図はあたかも「被害者」対「加害者とコミュニティ」になっているかのようにみえる。
加害者に対しては、どのように更生させるか、いかにして社会に復帰させるかという点に重点がおかれ、
そのためにさまざまな機関があらゆるシステムを作って努力している。
一方、被害者に対しては、犯罪に遭ったあと、どのように被害体験を乗り越え,いかにして生き延びていけばいいのか、
もう一度社会に対する信頼感を被害者に取り戻してもらうためにはどうすればいいのか、といったことは誰も考えていない。」(注1)

と言われます。
 世論の八割が「死刑存置」に賛成という現在の日本ですが、制度としてはいまだ被害者救済のシステムづくりは、アメリカにくらべて遅れています。
また宗教界・法曹界(とくに弁護士界)、ジャーナリズムの世界でも、日本においては被害者よりも加害者の人権を先に考える傾向があり、
被害者を置き去りにしたままで、加害者の擁護を叫ぶ声が日増しに大きくなっています。          

 真宗大谷派にかぎらず、宗教にかかわる者は、加害者の加害を擁護するのではなく、
加害者の加害を抑制し、その責任を厳しく批判するという宗教のもつ本来の倫理
(「加害してはならない」と叫ぶこと。「慚愧なきものはこれを人とせず」と諌めること)に立ちかえらなければなりません。
そしてどこまでも被害者の声や痛みに寄り添いつつ、加害者の救済をも考えるのでなければならないと、私は思います。
決して一方的であってはならないのです。


*(注1)新恵里『犯罪被害者支援アメリカ最前線のシステム』径書房〔二〇〇〇年〕(三二〇~三二一頁)   

 八、「」つきの正義


 宗門は今や、「死刑廃止」という「」つきの正義をスローガンに掲げてしまいました。
 正義がなくていいのではありません。大事なことは、それが常に「相対的」なものであることを、見失わないでいることです。
そしてその「正義」に違反した疑いがあるときは、審問や裁判をひらき、疑われた者には弁明の機会を与えなければなりません。
いかなる弁明の機会も与えず、一方的に断罪する。これは、現代のいかなる独裁国家もそこまでは躊躇するといえるほどのものです。
かって、太平洋戦争中に制定された戦時刑事特別法(一九四二年)は、
「有罪の言渡しをする場合には、理由を詳しく説明する必要はなく、有罪と認定した証拠のタイトル(標目)と根拠(法例名)を書けばよい」(二六条)
としたといいます(注1)(注2)。
 今回の処分はそれに倣ったごとくですが、いっそう無法であるのは、
根拠たる法例名はおろか、宗憲または条例に明示されたいかなる基準すらもないことです。

 「」のしめつけの度合いは、その時その時のありようで変わりますが、今回の処分は、その「」を絶対化し、
しかもそれを安田弁護士という一人の人物の言動と無原則に一体化させるという、大きな過ちを犯したものです。
つまり「」の中が「死刑廃止こそ正義である。したがって安田弁護士の活動も絶対の正義である。」という言葉に置き変わったと同時に、
それを批判する者は許さない、という身構えを示したのです。それは「」の質的な転換を意味しています。
ただスローガンを掲げていた段階から、スローガンに従わぬものを断罪する思想統制の段階に深化したのです。
厳しくタガを嵌め、激しく締めつける「」の中に、片足を踏み込んだのです。

「自己の宣伝において、たとえいかに僅少な部分であれ、相手の正義を認めたが最後、
そのことは自分自身の立場に関して疑惑させる種を播くことになる。」(注3)そう語ったのはヒトラーであったことを、私たちは知っておく必要があります。

「自らの正当性のみを主張し、憎悪を一点に集中しつづけることの真の目的とは、
まさに無知な大衆とつねに正しい指導者という、現存の動かすべからざる組み合わせを維持しつづけることにある」(注4)。

 今回の処分が提起している本質は、「死刑制度」に反対か賛成か、という以前の問題です。
宗門における言論が、その処分理由となった事実の開示なしに、一方的に封殺されたということです。
いったいいつ、私たち真宗大谷派に属する者は、安田弁護士の言動を無条件に肯定することが、宗門の意思であることを承認したのでしょう。
検証すべき理路を無視し、さらに「宗門の意思」を同朋公議に付すという姿勢を、今回の処分はいきなり突き破ってしまった。
それは宗門が、宗門の一部の独断によって、越えてはならない一線を越えたということです。
 それはまだ爪先でしょう。後ろ足が「」の外の地面についているかぎり、出した足を戻すことは可能です。
しかし両足が中に入ってしまえば、「」から出るのは容易なことではありません。翼賛と粛清の歴史の事実がそれを証明しています。
 宗門のさまざまな先生方が指適してくださるごとく、自らを絶対の「正義」として、その「正義」に従わぬ者を排除してはならないのです。
もし、今の姿勢を宗門が自らの意思とするならば、わが宗門は、宗祖親鸞聖人ご自身を排除するものとなるでしょう。顧みてください。


*(注1)磯部靖『戦時司法特別法』巌松堂書店/高山俊吉『裁判員制度はいらない』講談社+α文庫〔二〇〇九年〕二三七頁
*(注2)「いずれの文明国においても裁判の公開が憲法上の原則とされ、判決には理由を付する必要があるとされるのも、
それが当事者間の紛争の解決であるとともに社会的な紛争の解決であるからであり、
正当性の判断の基準としたものを社会に公示する必要があるからである。
したがって、この社会的納得が得られるためにも、判定の基準となる「正当性」は、
社会に説得力をもつ一般的なものでなければならない。」(大野正男『社会のなかの裁判』有斐閣〔一九九八年〕四〇頁)
 宗門における処分の「正当性」もまたこれと同様でなければなりません。
ここで言われている「社会」を、「教団」「真宗大谷派」などと言いかえてみてください。

*(注3)埴谷雄高「憎悪の哲学」/『幻視のなかの政治』未来社〔一九六三年〕所収(四三頁)
*(注4)(注3)に同じ 埴谷雄高「憎悪の哲学」(四三頁)
 

 九、良心と良心の対立


 「死刑廃止」を主張する人も、その廃止をためらう人も、いずれも良心にもとづいて主張し、思案しているのです。
いたずらに思想を玩んでいる人は、例外でしょう。
 宗祖は、その答えを語ってはおられません。懺悔なくば「救い」はない。宗祖がお示し下さっているのは、ただその一点です。
したがってその先は、われわれ自身で考えなければなりません。
またそれは日本国民全体の中で、討論され、吟味されることにおいて、確認されていくべきものです。
宗門は、宗門の意思として、これを統制すべきではありません。
 われわれは皆、ある意味では「死刑」を免れている者たちであり、
やがて必ず来る死によって「死刑」を宣告されている者たちでもあります。
そのわれわれが何において「救われ」、何において真の人間として成就し得るのか。
その問いを離れて真宗を語ることは許されません。
 

 十、宗門の願いについて


 宗門の願いが「浄土」の希求であるならば、その願いによって成る宗門は、一つのドグマによって支配されることなく、
共なる世界に集うことを唯一の旗印として、対立する主張や信念の厳しい緊張関係に支えられてあるべきです。
 それが真に人類に開かれた教団であるならば、
多様な文化や思想によって構成された人種や社会の存在を認め合い、許しあうものでなければなりません。
 「倶会一処」の世界は、どこにおいて、何によって可能なのか。われわれは、それを尋ね合わなければなりません。
一つの思想で決めつけることなく、議論し、批判し合い、そしてその思想の根底をなす真実において
その本願において、尊敬し合わなければなりません。
 この同朋公議の精神こそを、日本の社会に、ひいては人類社会に公開していくことが、われわれに課せられた使命なのではないでしょうか。

 よって、真宗大谷派宗門に要請します。

 宗門は、浅田正作先生へのいわれなき非難と、審判なき処分(処置)の過ちを謝罪すべきです。
 さらに、真宗大谷派の名によって、浅田先生の著作『念仏詩文集 枯草独語』を復刊すべきです。
そしてそこに、今回の処分にいたった経緯と、真宗大谷派には、安田弁護士の言動について賛否両論があること。
真宗大谷派はその点について思想統制を行わない旨を、明確に宣言すべきです。


 以上、浅田正作著『念仏詩文集 枯草独語』に対し真宗大谷派によって下された絶版回収処分が不当であることを、論述いたしました。
 

 資料  注の補足

 「われわれの社会が、裁判所を社会の平和と人権を維持する機関として承認する以上、「真実」の追求は不可欠である。」
 *大野正男(元最高裁判所判事・弁護士)『社会のなかの裁判』有斐閣〔一九九八年〕
                                 (二八三頁)
 「裁判への期待がまったくない社会は暗黒社会である。」
 *大野正男(元最高裁判所判事・弁護士)『社会のなかの裁判』有斐閣〔一九九八年〕
                                 (二九一頁)

 「いずれの文明国においても裁判の公開が憲法上の原則とされ、判決には理由を付する必要があるとされるのも、
それが当事者間の紛争の解決であるとともに社会的な紛争の解決であるからであり、
正当性の判断の基準としたものを社会に公示する必要があるからである。
したがって、この社会的納得が得られるためにも、判定の基準となる「正当性」は、社会に説得力をもつ一般的なものでなければならない。」
 *大野正男(元最高裁判所判事・弁護士)『社会のなかの裁判』有斐閣〔一九九八年〕
                                 (四〇頁)
 
 
 
 
  真宗大谷派の「死刑廃止」論とその声明

真宗大谷派声明関係資料(「死刑制度」に関するもの)

 1.一九九八年六月二九日「死刑制度を問いなおし死刑執行の停止を求める声明」第一回 (宛先 総理大臣・法務大臣/発信者 宗務総長)
 2.一九九九年九月一一日「死刑制度を問いなおし死刑執行の停止を求める声明」第二回 (宛先 総理大臣・法務大臣/発信者 宗務総長木越樹)
 3.一九九九年一二月一八日「死刑制度を問いなおし死刑執行の停止を求める声明」第三回 (宛先 小渕総理大臣・臼井法務大臣/発信者 宗務総長木越樹)
 4.二〇〇〇年一一月三〇日「死刑制度を問いなおし死刑執行の停止を求める声明」第四回 (宛先 森総理大臣・保岡法務大臣/発信者 宗務総長木越樹)
 5.二〇〇一年二月二七日「死刑制度を問いなおし死刑執行の停止を求める声明」第五回 (宛先 総理大臣・法務大臣/発信者 宗務総長三浦崇)
 6.二〇〇二年九月一九日「死刑制度を問いなおし死刑執行の停止を求める声明」第六回 (宛先 空白/発信者 宗務総長三浦崇)(注3)