高明寺レポート
大丈夫、いじめられた分だけ、いいお嫁さんになれる
いのちネット
大丈夫、いじめられた分だけ、いいお嫁さんになれる
熊本県水俣市茂道の漁港を見下ろす高台。杉本栄子さん(62)は空を見上げ、風と波の音をきく。
一九五九年。二十歳の夏のことだった。
漁から帰ると、庭で母(79)がけいれんをおこしていた。父と二人で市内の病院へ連れていくと、隔離病棟へ入
れられた。けいれんがひどくベッドに縛りつけられたおじいさんがいた。激しい発作で壁に何度もぶつかる女性が
いた。見舞いに来ていたのは自分たちだけだった。
三年ほど前から、水俣病患者が目立ち始めていた。しかし伝染性のある奇病とされた。
約百二十軒の集落。ラジオで母が入院したニュースが流れると、翌日から網子も寄りつかなくなった。集落での
発病はまだ、聞いたことがなかった。
暮れに結婚。そのころ自分も父も相次いで発病した。二年後に肇さんが生まれた時、母が孫を一目見ようと一
時帰宅したところ、 「村の道を歩くな」と、近所の男性に路上で突き倒された。顔を血だらけにして泣く母に
「ここは地獄か」と思った。
悔しくて「どうせ死ぬなら仕返しして死のう」と父に言った。男の子とのけんかでも、負けると家に入れてくれない
厳しい父だった。その父が言った。
「昔は良か人だった。だまされているだけだ」
あんなひどいことをする人をなぜ、かばうのか。
「苦しさのあまり狂ったのか」と、思った。
栄子さんは、十年近く寝たきりに近い状態が続いた。この間、五人の男の子を授かった。しかしは、手の痛みが
ひどく一人として抱けなかった。
六九年六月、一家四人が、チッソを相手取った初めての裁判に名を連ねると、新たな苦痛が加わった。チッソの
社員が裁判を取り下げさせるために執ように自宅を訪れた。断ると、親類を使って説得にかかった。
集落で四軒だった原告が、一軒だけになった。近所の店は物を売ってくれない。漁網も切られた。
あんなに仲良く暮らしていた人たちが、一瞬で変わる。「からだの痛みよりも、人とのきずなが切られたのが怖
かった。」
二十世紀初め、チッソは水俣工場を稼働させた。寒村だった水俣は半世紀で人口が約三倍に伸び、その七割
がチツソの関係者だった。チッソが納める税金も市税収入の半分を占めた。チッソが「殿様」の時代だった。
提訴から一カ月後、六十三歳で死んだ父は、遺言のように言った。
「人を恨むなよ。いじめられて死ぬ方が、いじめて死ぬよりも、すっきり死ねるぞ。」
その言葉を信じた。
四年後の七三年三月、熊本地裁で勝訴すると、潮目が変わった。集落の人たちが、徐々に言葉をかけてきた。
いじめた人の大半は水俣病で死んでいた。
遺族の女性の一人から思いがけない話を聞いた。夫が激しい発作を繰り返して息絶えていく中で「栄子ちゃん、
ごめんな、ごめんな」と、うわごとのように繰り返していた・・・・・・。
水俣病の「語り部」を始めて六年になる。校外学習などで訪れた小、中学生らに語りかける。話すたびに、つら
かった過去と向き合う。「でも、心は穏やかになる」と言う。
語り部を始めて間もないころ、帰り際に一人の女子中学生がかけ寄ってきた。「今、いじめられてて・・・・・・」と
打ち明けられた。栄子さんは彼女を抱きしめて言った。
「大丈夫。いじめられた分だけ、必ずいいお嫁さんになるから」。女生徒は胸の中で鼻水だらけになった。担任
の教諭は「知りませんでした」と言った。
数日後、この女生徒から手紙が届いた。
「あの日、会えなかったら死んでいたかもしれません。あの話をお守りに生きていきます」
2001年1月1日 朝日新聞「再生--人間の世紀へ」より抜粋