はじめましてーー長文ですが……

はじめまして、うんちゃんと申します。

こちらのご住職の『救いと責任』というHPの論文は、随分前に拝読させていただきました。
以前から関心はあったのですが、PCの調子が悪く、なかなか書き込みすることが出来ませんでした。結局PCを買い替えたことと、千葉法相の「死刑制度」に関して「国民的議論を……」という発言を耳にしたこともあり、書かせていただくことにしました。

Ⅰ 人権について

死刑反対論者の方々は、よく「人権派」と呼ばれますが、「人権」という言葉において常々疑問に思っていたことを書かせていただきます。
私の理解するところでは、人権というのは、一部の人が考えているような人として存在しはじめると同時に天から降ってきて与えられるようなものではなく、他者の人権を守るという「義務」を守る限りにおいて与えられる一種の社会的な契約概念だと思います。ゆえに、「権利」は「義務」とワンセットである、というのが重要な点です。
我が国では、死刑制度の対象となる犯罪者は殺人以上の罪を犯しているということにおいて、「他人の人権を守る」という義務を一方的に放棄した人であるといえるのではないか、と思います。その意味において、彼(犯罪者)の権利=人権が、何らかの制限を受けるのは当然のことだと思います。この論理でいくと、一人の人間を殺せば自分も生命を奪われる、という結論もあり得ると思います。
ただし、現行法では二人以上の殺人を犯すことが死刑の対象となります。その論理的根拠はよくわからないのですが、死刑には常に冤罪の可能性もしくは犯行時の責任能力の問題等がつきまとい「慎重においても慎重に」ということが根拠となっているのかもしれません。しかしながら、私の理解している人権という概念では、意図的な動機をもって他人の究極的な権利である「生きる」ということを奪い取った人は、その人の「生きる」ということが奪われるということも有りであると考えます。社会が制度としてそれをしないのなら、当事者の復讐感情に任せておけばいい、くらいに思うのです。何故なら、現行の法体制では、被害者遺族の復讐感情を社会がブロックする形で加害者を守り、被害者の遺族等は自分の愛する人が生きることを奪われたにも関わらず、事後承諾を得るような形で「そのことは我慢してください。加害者にも人権というものがあるので、よほどのことがない限り生命を奪うわけにはいきません」とだけ告げられ、やりきれない感情は押し戻され、かつ無理矢理飲み込まされることとなっているのではないかと感じさせられる状況にあります。死刑にならなかった場合、自分の愛する人の人生は既に無理矢理断ち切られたというのに、加害者の人生は何であれ持続し続けており、刑罰が罪の対価に値しないという思いが続くからです。その場合、我々は我々の税金を投入しつつ、加害者の人権ばかりを重視し、被害者遺族にそういう思いを強いる社会を存続させていることになっているように思えます。
今回、当HPのご住職が『真宗大谷派宗門に対する公開質問状ならびに要望書』で取り上げられていた浅田正作氏の詩文は、やはり私も適切な表現とは思わないので、出版局が出版を見送ることにしたのは致し方ないようにも思います。ただし、浅田氏が「人間の暖かい体温など持ち合わせていない冷血漢に、愛しい妻子を殺された遺族の、悲痛な叫びなど聞こえないのであろう。」と書かれた表現は、(私が先ほど述べたような)法律が遺族に強要することになる「思い」を代弁しようとするあまり、安田弁護士個人の人格に直接攻撃する表現となってしまい、作者の意図とは反することとなってしまったのではないでしょうか?そうだとすれば、私は浅田氏に一定の共感をもつ者でもあります。
私は、人権という概念は権利-義務ワンセットのものだと考えるので、死刑制度には必ずしも反対ではありません。法律の下に生きる市民としては、そういう意見をもっています。ただし、私は仏教徒でもありますので、「加害者被害者が共に救われる」為にはどうしたらいいのか、ということに関しては別の思いももっています。

Ⅱ 加害者被害者が共に救われる為には

『 Ⅰ「人権」について』では法律の下で生きる市民感情としての意見を述べましたが、ここでは、仏教徒としてどう考えるか、ということについて述べたいと思います。
私は、非道な犯罪と仏教がどう関わるのかを考える時によく思い浮かべるエピソードがあります。
釈尊がアングリマーラという連続殺人者を弟子にする時の話です。
アングリマーラは漢訳で「指曼外道」と訳される釈尊在世当時、実在していたとされる人物です。100人の人間を殺す誓いを立て、数を確かめる為に殺した人の指を1本づつ切り取り、繋げて自分の首にネックレスのように掛けていたので、「アングリ=指、マーラ=首輪」というあだ名がついていました。彼はもともとは優秀なバラモンの弟子で、将来を嘱望されていたのですが、師匠と師匠の妻との情欲がらみの関係に巻き込まれ、師匠に嫉妬から「人を100人殺したら解脱できる」と吹き込まれ、実行しているうちに正気を失っていき、100人目の相手として釈尊と出会い、説法され、仏弟子となり、その後「阿羅漢位」に達して現在のスリランカ等では妊婦の為の守護神のように受け取られている存在です。
『アングリマーラ経』というお経によれば(以下の引用は『世界の名著1 バラモン教典/原始仏教』(中央公論社)より)、
彼を扱うに当たって釈尊は、3つの特徴的な行為をされています。
1)まず説法をして、彼が望むやいなや、すぐに出家させてしまい、国王が彼を逮捕しに来た時、「大王、もしアングリマーラが髪と髭とを剃り落して、黄色に染めた衣をつけ、家から離れて家無き生活に入り、生物の生命を奪うことから遠ざかり、自らに与えられていない物を取得することから遠ざかり、嘘をつくことから遠ざかり、1日1食の生活をし、禁欲して異性と交わらず、身の振る舞いが正しく、性質がよいのを見たならば、おん身は彼をどうするであろうか?」と質問し、王族が出家者に対してとる態度を引き出し、彼を逮捕から守ります。(逮捕されれば、そのまま死刑に続くことになると思われます。)
2)その後、出家して托鉢をしていたアングリマーラが難産で苦しんでいる婦人を見て「あぁ、実に人々は苦悩している、あぁ、実に人々は苦悩している」と思ったことを釈尊に告げた時、釈尊は「アングリマーラよ……(中略)……おもむいて、その婦人にこのように告げるがよいーー婦人よ、私はとうとい道に志す者として生まれ変わってからこのかた、故意に生物の命を奪った記憶がない。このことの真実によっておん身に安らかさあらんことを、胎児に安らかさあらんことを、と」と命じ、アングリマーラはその通りにし、婦人は安らかになり、胎児は安らかに生まれたそうである。
3)阿羅漢位に達した後のアングリマーラが、彼自身がたくさんの人々を殺戮した地方で托鉢していた時、「誰かの投げた土くれが尊者アングリマーラの身体に当たり、他のだれかの投げた棒が尊者アングリマーラの身体に当たり、もうひとりの投げた小石が尊者アングリマーラの身体に当たった。それで尊者アングリマーラは頭を傷つけられ、血を流させられ、鉢をこわされ、外衣を破られて、世尊のもとへやって来た。」という事件があった。その時釈尊はアングリマーラに「婆羅門、おん身は忍耐せねばならぬ。婆羅門、おん身は忍耐せねばならぬ。おん身が以前になした行為の報いとして、幾年、幾百年、幾千年、破滅の世界に生をうけたであろうはずの、その行為の報いを、婆羅門、おん身はいま現にうけているのだ」とお告げになり、自らの行為が還ってきていることと、それが軽減されて受け取られていることをお教えになり、忍耐を促されます。
この『アングリマーラ経』に書かれている釈尊の言葉・行為から死刑制度ならびに遺族の復讐心ということを考えますと、こう言えると思います。
1)のエピソードからは、犯罪者が迷いから覚めて以前とは全く違った生活をし、全く違った精神の拠り所に立っていることを条件として、死刑には反対されていると解釈できるでしょう。
2)のエピソードからは、生命を積極的に守るという行為をさせて、過去の犯罪とは反対の質をもった行為をさせていること、これが行為の報いを軽減させている条件のひとつとなっていると、解釈できます。
3)のエピソードからは、遺族らが加害者に対して実際に傷つけるという行為をしたとしても、そのこと自体はお止めにならない。ただ、仏弟子を害することは非常な罪であると日頃教えられているので、間接的に守っていることにはなっているでしょう。この遺族の復讐感情ということに関してですが、「仏教はそういう感情を認めていない」という言い方があり、その根拠として『法句経』(ここでの引用は友松圓諦/訳)の「まことに、他人をうらむ心をもってしては、どうしても、そのうらみを解くことはできない。ただ、うらみなき心によってのみ、うらみを解くことができる。このことは永恒に易ることのない真理である。」という言葉が引用されることがよくあるようですが、このエピソードにおける身内が殺された上、指を切り取られ、首飾りにされるという異常事態に対して、そのような言葉はおっしゃられていません。むしろ加害者に対して、行為の報いとして甘んじて受けるように示唆されています。
このことから、釈尊のお考えとしては、
①過去の行為の報いは全く違う人間になっていたとしても、何らかの形で受けなくてはならない。
②復讐心という感情をいつでも無制限に止めるようにお教えになっているわけではない。
ということが解釈できるわけですから、仏教徒の宗教感情としてとにかく復讐心などというものをもってはいけない、と導いて法律で止められている上にさらに宗教的権威からも我慢を強いられるという事態に遺族を追い込む、という現在の一部の宗教家がやっている様なことはされなかったわけです。
ただ復讐心というものを又、無制限に放置されているわけではなく、アングリマーラを仏弟子にすることで守りつつ、生命を守る、という以前とは逆の質の行為をさせ、そのことを社会が認めるのを待って、遺族の復讐心を捨てさせていかれたのだと思われます。
①に関しては加害者を「過去の行為の報い」を受けるように導かれ、遺族の加害行為に抵抗しないようにされます。この事はその後も続いたはずですので、(別訳では、続いていたと記憶しています。)命じられたアングリマーラとしては、常に命の危険にはさらされるわけです。危険をあえて無抵抗で受ける加害者を通して、遺族の復讐心を和らげていかれた、ということもあるでしょう。
そして、このことは2)のエピソードでの行為と合わせて、アングリマーラが罪悪感を越えて行く助けともなっています。このお経の終わりにアングリマーラは「ーー前略ーー以前にはわが手は血にまみれ、指の首飾りをもつ者として聞こえていたが、わたしは帰依することを知った。迷いの生存に導く縄は断ち切られた。そのような、悪い境涯に行かねばならぬような行為をなし、その行為の結果に影響されながらも、もはや心に負い目を負わぬわたしは、生活を享受することができる。ーー後略ーー」という詩節を唱えています。釈尊は、人を99人殺したアングリマーラと家族を殺された遺族とを、非常に創造的なやり方で、事件が起こる前よりも一歩前進した存在として生かしていかれているように思います。
現在の法制度の下では、遺族の報復的私刑行為を織り交ぜながら人々を導くというのは不可能なことです。だからといって、遺族に「耐え忍べ」と正論だけを押し付けるのでは、何も解決しない心の傷が残ります。ですから、殺人という行為が存在した時に、加害者被害者が最終的には共に心の傷を乗り越えて行くやり方というものがないものか、と私自身が仏教徒として模索し、苦慮しているところです。
他の仏教徒もしくは宗教者の方々のご意見も伺いたいと思っております。