高明寺レポート
「うんちゃん」ヘ
投稿者:admin 投稿日時:2010年09月17日 (金)
「うんちゃん」への応答
「うんちゃん」さん。
誠実で、よく考えられた書き込み、ありがとうございます。
多くの点で、共感するものがあり、心強く思いました。
書き込んでいただいたことに応じて、私なりに考えることのいくつかを述べてみたいと思います。
1.アングリマーラ説話について
まずアングリマーラについて、「うんちゃん」さんも取りあげておられますが、これは仏教徒が「死刑問題」を考えるときに必ず引き合いにだされるものでしょうし、またそうあるべきものだと思います。
というのも、アングリマーラを主人公とするこのエピソードは、初期仏教教団が五逆の問題(現代でいえば凶悪犯罪の問題)と、「解脱」という初期仏教の根本課題との整合性を、正面から課題としてとりあげた事例だと考えられるからです。
「うんちゃん」さんが引用しておられる中央公論社『世界の名著1 バラモン教典/原始仏典』に掲出されている『アングリマーラ経』は、パーリ経典の「マッジマ・ニカーヤ」(「中部経典」ともいわれる)の中に出るもので、「アングリマーラ説話」としては、ある程度時代の進んだものと考えられています。
仏教経典の中に「アングリマーラ説話」を語るものは数多くあり、その変遷を研究した論文もいくつかあるようです。確定的ではありませんが、その最古層、古層、新層を区別した研究もあります。
その時代的確定はともかくとして、アングリマーラを主人公とするこのエピソードをめぐって、その解釈や表現に変遷があるということは、注意しておくべきだと思います。
それはこの「アングリマーラ説話」が、当時の仏教教団の統一的見解をはじめから確立的に現しているわけではなく、その解釈や受取に異同がある、つまり仏教徒自身がこの問題をめぐって試行錯誤をしている、ということを示しているからです。
『佛教學セミナー』(大谷大學佛教學會・第87号/2008年6月)という冊子の中で、平岡聡という方がその「アングリマーラ説話」の異同をかなり詳しく取り上げておられます(*平岡聡『アングリマーラの<言い訳>不合理な現実の合理的な理解』)ので、それに依りながら、私なりに問題をまとめてみたいと思います。
Th(テーラガータ)に説かれるもの。
1)(アングリマーラは)ブッダのはからいで殺生を止め、出家する(866870)。
2)以前には悪を侵した者でも、その後の努力で世を照らす者となる(871873)
3)(アングリマーラは)ブッダに調御されて不殺生者となり、ブッダに帰依する者となり、解脱者となった(877882)
Dhp-a(ダンマパダ・アッタカター)に説かれるもの。
「さて、長老〔アングリマーラ〕は師のもとで出家して阿羅漢性を獲得した。その時、同志アングリマーラは独居独坐し、解脱の楽を感受していた。その時、彼は感興の詩頌を発した。
「かって放逸に暮らせし者も、後に放逸なき者は、
雲から抜け出た月の如く、この世を照らす」
等の仕方で感興の詩頌を発すると、彼は無余なる涅槃界に般涅槃した。比丘達が「皆さん、長老は一体何処に生まれ変わったのだろうか」と法堂で話をしていた。〔そこに〕師が来られて、「比丘達よ、今、お前達はいかなる主題・意味について話をしていたのだ」と尋ねられると、「大徳よ、長老アングリマーラの再生の場所について話をしておりました」と答えた。「比丘達よ、我が息子〔アングリマーラ〕は般涅槃したのだよ」と。「大徳よ、あれだけの人を殺しておきながら、彼は般涅槃したのですか!」と。「比丘達よ、いかにも。以前、彼は一人の善知識も得られなかったのであれだけの悪を犯してしまったが、後に善知識の助けを借りて、彼は放逸なき者となったのだ。彼の悪業はその善業によって封鎖されたのだ」と言われて、次の詩頌を説かれた。
「〔かって〕悪業を犯した人でも、〔それを後に〕善で封鎖する人は
雲から抜け出た月の如く、この世を照らす」
(前出・平岡論文/9頁)
このように「アングリマーラ説話」の中でも比較的古層に属するとみなされるTh、あるいはDhp-a(「法句経註」時代的には新層にあたるのでしょう)の中では、アングリマーラという大量殺人を犯した個人が、それでも解脱を得ることができるかどうかが主題となっています。そして、その犯罪によって被害を受けた人々に関してはまったく言及されていません。つまりこの段階では、仏教教団の関心の中心は「個人の解脱」にあり、殺人という悪業を犯した者には解脱は不可能なのか、それとも条件によっては可能なのか、というのが問いです。
しかし仏教徒自身の試行錯誤の中で、「それほど重大な罪の報いを何も受けなくていいのか」あるいは「その犯罪によって被害を受けた人々のことは考えなくてもいいのか?」という問いが生まれてきたのでしょう。
そういう問いをふくめて語られているのが、Thよりも後のものと思われる、「うんちゃん」さんが引用しておられるパーリ経典「マッジマ・ニカーヤ」中の『アングリマーラ経』でしょう。
その内容については、「うんちゃん」さんが要約してくれているとおりですので、繰り返しません。
そこに出てくる「誰かの投げた土くれ」「誰かの投げた棒」「誰かの投げた小石」などといわれる「誰か」が、アングリマーラによって殺された人々の縁者であるのか、あるいはその事件を知っていて彼を憎む者であるのか、ということは明確にされていません。
ただ、その後に続く「婆羅門、おん身は忍耐せねばならぬ。婆羅門、おん身は忍耐せねばならぬ……」以下の釈尊のことばによって、アングリマーラが以前に為した行為の報いとして、その苦果を受けているのだということは分かります。
中央公論版の訳では「破滅の世界」とされている部分の原語は「ニラエー」で、これは「地獄(ニラヤ)で」と訳すことができます。「地獄の思想」は、拙論『仏教はほんとうに裁かないのか?』の中でも確認したように、仏教の最古層(あるいは古層)に属する観念ですから、ここでは「地獄」の訳語を使ったほうがはっきりすると思います。
平岡訳では、この部分は「地獄で煮られるべき業の異熟を現世において受けているのだ」とされています(*ここでの「異熟」は「報い」という程度に理解しておけばよいでしょう)。
本来であれば、数千年ものあいだ地獄で受けるべき苦しみが、仏門に帰した故に、今はるかに軽い苦しみですんでいるのだ、という理解です。
いずれにせよ、Thなどではまったく言及されなかった「罪の報い」の問題が語られている。というか、「般涅槃(解脱)した」ということは、「輪廻による再生をしない」ということであり、それはもはや「罪の報いを受けることのない者になった」ということと同義ですから、Thなどでは、そういう形で「罪の報い」の問題を解決していたと言えるのでしょう。
それに対して、「マッジマ・ニカーヤ」中の『アングリマーラ経』では、たとえ来世の報いは受けない身になったとしても、犯した罪の報いをまったく受けないでいいのか?それで済むのか?という素朴な人間の問いに答えようとしているのでしょう。
それは現代にも通じる問いであり、「来世の報い」を信じることのなくなった現代においては特に、「現世における報い」あるいは「償い」が問題となるはずです。
また漢訳『出曜経』では、アングリマーラを傷つけた者が、彼に身内を殺された者たちであることが明記されています。
したがって「アングリマーラ説話」において当時の仏教徒が問題にしたのは、
●凶悪な犯罪を犯した者の「解脱(般涅槃)」の可能性。
●現世における「報い」の有無。またその程度と正否。
●「被害を受けた人々の苦しみや悲しみ」をどう考えるか。
の三点といえるでしょう。
「うんちゃん」さんが「仏教徒として、加害者被害者が共に救われる為には……を考える」と言われているように、それは私にとっての課題でもあります。
そして「うんちゃん」さんが適確に指適してくれている通り、「マッジマ・ニカーヤ」中の『アングリマーラ経』では、(1)過去の行為の報いは全く違う人間になっていたとしても、何らかの形で受けなくてはならない。(2)復讐心という感情をいつでも無制限に止めるようにお教えになっているわけではない。
ということが解釈できる、と私も思います。
ただ、この「アングリマーラ説話」が「死刑」という刑罰自体を否定するものだということは言えない、と私は考えています。
なぜなら、ここで語られているのは、釈尊に教化されて解脱したアングリマーラという一人の長老の物語りであり、アングリマーラ以外にも多数存在しているはずの他の凶悪犯たちについては何も語られていないからです。
もしこの説話が積極的に「死刑」を否定する意図をもっていたとすれば、「アングリマーラという解脱した例があるのだから、他の凶悪犯たちも解脱の可能性をもっている。だから国王よ、彼らを死刑にしてはならない」という主張を展開したでしょう。
しかし説話は、アングリマーラ以外の凶悪犯たちについては何も語らず、「死刑」そのものについては、「いい」とも「悪い」とも語ってません。
確かに釈尊は、国王がアングリマーラの逮捕に来たとき彼を守り、彼を解脱に導きました。
しかしこの説話の意図は、釈尊に教化されればどんな凶悪犯でも解脱できるという、釈尊の威神力、またその釈尊によって開かれた仏法の威力を宣揚するもの、あるいはもしアングリマーラの出家が事実ならばその事実を教訓的に説明しようとしたものであって、すべての凶悪犯たちの「死刑」に反対するというものではありません。
もし釈尊自身にその意図があったならば、釈尊は国王に向かってこのように語らなければならなかったでしょう。
「大王よ。私はあなたの牢獄にとらわれているすべての極悪な犯罪者たちを解脱に導くことができる。だから彼らを私のもとへ預けたまえ。だから彼らを死刑にしてはならない。大王よ、彼らを私のもとへ預けたまえ。」
しかし釈尊はそのように語らず、そのような行動を起こそうともされませんでした。そうではなく、縁あって釈尊に出遇ったアングリマーラ(もともと求道心が強くいわば騙されて罪を犯した)に対してだけ、国法による刑罰から保護したわけです。
事実、犯罪者を教団に受入れることの是非について、仏教教団の中で問題になったようです。
パーリ律における「アングリマーラ説話」は、この点で奇妙な語り方をしています。
「その時、アングリマーラは比丘達のもとで出家した。人々は〔それを〕見て恐れ戦き、逃げ出し、〔彼とは〕別〔の路〕を行き、〔彼からは〕顔を背け、また門を閉ざした。人々は憤り、失望し、「どうして沙門釈子達は札付きの強盗を出家させてしまったのか!」と謗った。比丘達は人々が憤り、失望し、謗っているのを聞いた。すると、その比丘達はこの出来事を世尊に告げた。世尊は比丘達に「比丘達よ、札付の強盗を出家させてはならぬ。出家させれば悪作に堕す」と告げられた。」
(「パーリ律」前出・平岡論文 21頁)
もし仏教教団がすべての凶悪犯たちの処罰に反対するならば、彼らすべてを教団に受入れ、出家させ、解脱に導かなければなりません。そうでなければ無責任ですが、現実問題として、とてもそれはできない。世間の非難にも対処できない。だから釈尊自身が「札付の強盗を出家させてはならない」とおっしゃったのだということになったのでしょう(実際にそうおっしゃったのかも知れませんが)。
しかし、ではアングリマーラはどうなんだ。釈尊その人が札付の犯罪者であるアングリマーラを出家させたではないか?という疑問が起こるのは当然です。
それに対して、初期仏教教団は明確な答えを示せてはいないように思えます。
釈尊はアングリマーラを出家させた。しかしそれを他のすべての犯罪者にも適用することはできない。ではどうしたらいいのか?どう考えたらいいのか?ということについて、答えが出せないでいるのです。
この問いは大乗経典、とくに『涅槃経』において「一闡提成仏」の問題として引き継がれ、さらに曇鸞、善導を通して、親鸞聖人の『教行信証』〔信巻〕中の『涅槃経』の引文において深められている問いです。
その全体を俯瞰するのは、今後の大きな課題ですが、今「アングリマーラ説話」についてのみ言うならば、
この「アングリマーラ説話」をもって、仏教は「死刑制度に反対している」と考える人達がおられますが、それは短絡的な思考だと私は考えます。
「五逆」「一闡提」をめぐる仏教の思想史試行錯誤の歴史そのものが、この問題をそれほど単純なものとして仏教が扱ってこなかった、これなかった事実を示しています。
私自身の現在の考えを端的にいえば、ある種の重大な過ちを犯した場合、もしそれが私自身であったならば、私が私の命をもって自己の罪を償う覚悟をたまわった時、まさにその時、み仏は私の前に立っておられるだろう。そのことだけは、私は確信をもって語ることができる、ということです。
「アングリマーラ説話」に関して、また何か新しい知見がありましたら、お教えください。
充分に長い文章になってしまいました。その他の点についてはまた別の機会にします。
書きこみ、有り難うございました。また書きこんでください。
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