Re:「うんちゃん」へ

adminさん「応答」ありがとうございます。うんちゃんです。
私も『アングリマーラ経』には異訳があることは知っていましたので、書き込みをした後(adminさんのご応答の前に)図書館で調べてみました。その時確認出来た大蔵経の中では『世界の名著』に出ている訳は、最も短いものでしたので勝手に最古層に近いものかな……と思っていましたが、そうでもなかったのですね。勉強になりました。

ところで、死刑問題について考えるというテーマがこのお経を解釈する際には常にあるわけですが、adminさんが「当時の仏教徒が問題としたことは」というまとめ方をされた3点のうちの1つ「現世における”報い”の有無、またその程度と正否」について思ったことがありますので、再び書き込みさせていただきます。

この「現世における”報い”」として、ここで問題になっているのは、加害者が「死刑」もしくは「誰かに害される……」が問題なわけですよね?
まずadminさんは死刑ということに関して、私がこの経典から釈尊は死刑に反対されているという結論を出した、とお考えになったようですね。でも、釈尊は死刑に対しては、反対することも賛成することもあり得る、と私は考えていますし、そう書いたつもりでいました。前の書込みで「犯罪者が迷いから覚めて、以前とは全く違う生活をし、全く違った精神の拠り所に立っていることを条件として、死刑に反対されている。」と書きました。これには、あくまで前提条件があるわけです。それは、アングリマーラが「帰依所を見いだした」ということです。釈尊は犯罪を犯した時とは、はっきり行動・感情・判断の拠り所が変わったということで、アングリマーラの逮捕をお止めになったわけです。しかしながら、人が本当に帰依しているのか、ポーズとしてしているのか、という問題が常に残るとは思います。adminさんが引用された「比丘たちよ、札付きの強盗を出家させてはならぬ。出家させれば、悪作に堕す」のような表現が後に現れたということに関しては、犯罪者によっては「アングリマーラでさえ、教団によって法律から逃れられるなら、出家することによって身を守ることが出来るのでは……」と考えて出家した者たちがいた、という経緯があったのでは?と、考えます。これは現在の刑法上の問題としては、責任能力の有無の判定に近い問題といえるでしょう。
それはともかくとして、釈尊は逮捕から守る一方で「婆羅門、御身は忍耐せねばならぬ……」という言葉で、現世において「報い」を受けることを耐えるべきだ、ということも勧められています。この経典における釈尊は耐えることの根拠を、地獄に落ちて数千年苦しむはずがこの程度で済んでいるのだ、とおっしゃっておられます。が、死刑になるはずのところがこの程度で済んでいる、とはおっしゃっていないのです。ですから、「婆羅門、御身はこの世で死刑を受けてしまわねばならぬ。幾千年地獄に生を受けたはずの行為の報いを、御身は現世で受けてしまった方がいいのだ」とおっしゃることもあり得るのではないか、と私は思うのです。なので、来世における「報い」という考えを考慮に入れずにこの経典から「現世における”報い”の有無、またその程度と正否」という問題は考察出来ないと思います。アングリマーラは釈尊の仰せに対しては命をかけて応えるだろう、ということが「帰依所を見いだした」ということの内実だと思いますので、「死刑を受けてしまいなさい」と言われた時には「はい」と答えるような帰依の仕方をしていることを前提に、釈尊は法律による死刑から彼をお守りになったのだと思います。そこまで帰依した人間は、以前とは違う人間であり、現世で罪の報いを受けつつ同時に現世で「世の福田」となり得る、ということが釈尊がアングリマーラを生かしておかれた理由だと思うのですが、如何でしょうか?
仏教では、宗教的実存になった個人と一般的な法律の対象としての個人とでは同列の対象として論じることは出来ないようになっていると、私は考えます。現に『アングリマーラ経』(『世界の名著』より)では、アングリマーラは仏弟子になった途端に「アングリマーラ尊者」という表記に変わっています。これは、「帰依所を見いだした」ということであらゆる意味がひっくり返る、ということだと私は思います。そのことが後の親鸞聖人の『教行信証』における「ただ正法を誹謗せしめて、さらに世の罪なしといえども、必ず生を得じ。」という思索に関わってくるのだ、と思っています。
どちらかというと私にとってこの問題は、その個人が、本当に「帰依所を見いだした」個人なのか、別のものに依って立っているのに仏教に依っているフリをしている個人なのか……ということにあるのです。ですから一般的な結論として、仏教が死刑に反対しているのか賛同しているのかは、外側から見た論理としてだけでは判断することは出来ないと思います。
宗教的実存となった個人を無視して論じるのであれば、前回の書込みの「Ⅰ人権について」で述べた考え方に基づいて、私は死刑制度に対しては存続論者である、といえるでしょう。

また、最後にもう1点。
結論に到る教証には異論を唱えられるにもかかわらず、結論には賛同なさるので、とらえどころのない論拠に立っていらっしゃるかの様に感じます。私としては、その仏典から仏教徒として導き得る考えを述べていることが重要な論点なのです。まだまだ私はかなりの未熟者ですので、もちろん「教証する」となると、かなりの不備な点はあるのでしょうが、そちらにばかり重点が置かれると、ほとんどの方がモノが言いづらい場所になってしまうのではないか、と思います。暖かく広いお心で、(余程の間違いがない限りにおいて)私が必死に導き出した結論の方に重点を置いてお考えいただけたら幸いです。