まったく同感です

 うんちゃんへ

 
ぼんです。
 
投稿ありがとうございます。忙しさを言い訳に、ほったらかしにしておいて申しわけありませんでした。
 
それも確かに理由のひとつですが、もうひとつ、投稿の内容がきちんとしたよく考えられたものだったので、
 
こちらもそれなりに丁寧に考えたものを書こうと思っていたことも、遅くなった理由です。
 
ようやく身の回りが落ち着いてきましたので、筆(パソコンのキーボード)をとりました。
 
読ませていただいた印象を一言でいえば、まったく同感です。
 
この問題について、私はまず真宗大谷派の内部で議論を尽くすべきこととして取り上げ、宗門に呼びかけました。
 
その際に、浅田先生から託された名簿を頼りに、浅田先生と親交のある方々にお手紙を書きました。
 
その中で、共感を示してくれたのはお西(本願寺派)に属す女性が一人、この方は浅田先生の本が絶版とされた時、
 
真宗大谷派出版部に抗議の電話をかけてくださったそうです。
 
そのほかには、消極的に共感してくださった方と態度保留の方が若干名。
 
大谷派の中で共感者はゼロ、逆に真反対の意見を葉書で返信してくれた方がお一人という状況でした。
 
その後、ご承知のように宗門(また宗門を代弁する立場で出版部)からまともに取り上げる意志のない回答を受けたことにより、
 
このホームページに浅田先生の文章を掲載し、広く日本社会の多くの人々と問題を共有しようと考えたわけです。
 
大谷派教団に対しては、その後も、私はたまたま東京練馬区にある真宗会館で十年以上教導という役を仰せつかっていましたので、
 
そのお役目として日曜礼拝でのお話の際に取り上げたり、東京教区の同和委員でもありますので、
 
教区情報誌の同和委員のページに執筆の担当が回ってきた時にも取り上げました。
 
その際、私の原稿に東京教務所長からクレームがつき、何度ものやり取りのあげく、かなりの修正を施した上で、結局原稿は掲載されました。
 
その修正に関しては私は妥協したというよりも、相互の意見交換を経てかえってより良い文章になったと思っているのですが、
 
唯一妥協したのは、このホームページを見てほしいという一文です。
 
私としては、わずかなスペースで意を尽くせない内容を、このホームページを参照して、まず教区の人々に基礎的な事実情報に触れてほしいという
 
意図だったのですが、それはどうしても認められませんでした。
 
私としても、組織の論理としてはそうであろうと、そこだけは妥協したものです。
 
私は昨年、浅学にもかかわらずどういうわけか十年以上お声をかけ続けていただいた真宗会館教導の任を解かれましたが、
 
理由はこの一連の行動によるのでしょう。
 
それもまた組織の論理としてはそうであろうと、始めから覚悟していたことでもあり、別に驚きも怒りもしませんが、それは同時に、
 
私たちの教団が現代の深い悲しみや怒りに相応し得ていないという事実についての、不本意な受容を私たちに要請しています。
 
それは私たちに静かな悲しみに耐えることをも要請するのですが、私は現在の私たちの教団がいつか自らの皮相な「善人性」に気づく日がくるとして、
 
それにはあと十年、あるいは五十年の時間が必要かもしれないと考えています。
 
私が言う「皮相な善人性」とは、うんちゃんのいう「俗化した人道主義」のことですが、まさにその「俗化した人道主義」をもって、
 
自らを「善」とし「正義」としているのが私たちの現在の教団の、少なくとも「死刑問題」に関するかぎりの姿です。
 
それは同時に、うんちゃんが取り上げてくれた光市母子殺害事件の本村洋さんや、名古屋闇サイト殺人事件のご遺族に象徴される方々が、血を吐く思いで
 
加害者の死刑を求めるのに対して、その方々を羽交い絞めにしながら、キレイゴトのお説教を垂れている教団の僧侶の一人としての私の姿です。
 
私は、そのような私を含めた宗教者の姿を、限りなく慙(は)づかしいと感じました。その慙づかしさが私を今度の行動に駆り立てました。
 
ここで立ち上がらなければ、自分が僧侶になった意味がないと感じたのです。
 
私が僧侶になったのは、私なりのささやかな苦しみや悲しみを通してでした。
 
そのささやかな苦しみや悲しみを人間の苦しみとして了解できた時、人間の悲しみとして了解できた時、私は僧侶になろうと思ったのです。
 
だから私が僧侶であるということは、どこまでも人間の苦しみ、悲しみとともに私がありたいと願うことです。
 
その魂が、今度の大谷派の「絶版処置」を「違う」と叫ばせたのでした。
 
私はさきほど、私たちが静かな悲しみに耐えなければいけないと書きましたが、
 
それは本村さんや名古屋闇サイト事件のご遺族を始めとするあまたの被害者ご遺族の、
 
全身の毛孔から目に見えない血を噴き出し、その眼から目に見えない血の涙を流しておられる悲しみとはくらぶべくもありませんが、
 
しかしなおその一滴でも私たちの胸のうちに汲みとろうとするありようによって、わずかに頂戴する悲しみです。
 
私たちの教団が発行した『死刑制度と私たち』のなかのどの一語からも、その一滴の万分の一ほどの悲しみも、私は感じることができません。
 
血を吐く心で加害者の死刑を求めずにおられない、叫ばずにおられない、それらのご遺族たちこそは、
 
真の意味で『嘆異抄』のいう悪人(人間の赤裸々な事実を生き、それゆえに如来に頭を垂れる人々)でしょう。
 
どんなにそれは「仏法では禁じられている」「魚を殺し肉を食べることは仏様の教えに背くことだ」と言われても、そうせずにはおれない、そうしなければ
 
生きていけない人間の現実を見据え、そのような人間の場所に立たれたのが親鸞聖人だったはずです。
 
実際の裁判でどのような判決が下されるかは、その裁判にかかわり審議に参加される方々の判断です。
 
しかし少なくとも、愛するもののかけがえのない生命を奪われた被害者ご遺族の方々には、その裁判において加害者の死刑を求める権利がある。
 
それは、近代社会が私刑を禁じ仇討ちを禁じて公的な裁判制度のもとに社会秩序を統制する限り、すべての公民に与えられるべき
 
基本的な権利だと私は考えています。それは奪われてはならない人間の権利です。
 
死刑制度を廃止することは、この基本的な人間の権利を、近代法制度の下に統治するすべての公民から剥奪することを意味しています。
 
死刑制度の廃止を主張する人々は、廃止することが人権思想の進歩であり勝利であると考えておられるようですが、実は退歩なのでしょう。
 
人権思想そのものが皮相なのではなく、皮相な人権思想が、現代の世界を覆おうとしているのだと思います。
 
私は毎年茨城県のある真宗寺院に報恩講のお話を頼まれて出かけているのですが、ある時、私がまったく「死刑問題」についても私の活動についても語っていないのに、
 
法話後のお斎(とき)の席であるご門徒が、大谷派の「死刑反対」の偽善性を厳しく批判されました。私はただふんふんと聞くだけで、私自身の考えは何も言いませんでしたが、
 
こういう方がおられるということだけは心に刻みつけました。
 
そういう方々がたくさん真宗門徒の中におられる。私はそう考えていますし、それが私をなお真宗教団にとどまらせている理由のひとつです。
 
もし真宗門徒の全員に「死刑制度」の是非を問えば、おそらく日本人全体に尋ねた時と同様に、八割程度のご門徒は廃止を是としないでしょう。
 
単なる推測にすぎませんが、それはほんとうに、一度やってみたらいいと思います。
 
私は、私をふくめた職業的僧侶が、人間の素朴な感覚(痛みや悲しみ)を見失い、教理教学を観念的に振り回しながら、
 
「どんな人のいのちも大切だ」「だからどんな人のいのちも奪ってはならない」と、のんきなキレイゴトを語っていられるのは、人間の深さを忘れているからだと思います。
 
忘れているというよりも、始めから知らないのでしょう。知らないから、軽んじることができる。軽んじ、踏みにじり、抑圧することができる。
 
取り急ぎ、投稿のお礼だけでもというつもりで書き始めたら、やはり止まらなくなりました。
 
書きたいことがいろいろ出てきたので、とりあえず今回はここで強制終了とします。
 
日をあらためて、第二弾を書きます。
 
うんちゃんの登場で、私が孤立無援ではないということが確認できました。
 
また投稿して下さい。