光市母子殺人事件最高裁判決に思う

以前、こちらで裁判員制度が始まった頃に意見を書かせていただいたうんちゃんです。
あれから一年半と少し経ち、裁判員裁判にもいろいろな判決や経緯がありました。
そんな中で1ヶ月ほど前に、
高明寺のご住職が宗門内の出版停止と死刑制の是非を問うきっかけとなった『光市母子殺害事件』の最高裁判決が出ました。

今回、判決が出て、死刑が確定したことを受けて思うところがありましたので、又、投稿させていただきました。

結論的に言ってしまうと、判決はあれでよかったな、という思いなのですが、少しそう考える論拠をあげせていただきます。 

まず、はじめに一般的な「死刑制反対」の論拠として、死刑廃止は先進国における流れであり、世界の良識である、という意見があります。
が、日本では裁判員制度が始まってからも死刑を是とする人が以前より増えており、先進国の傾向のなかでは異なった動きをしています。 
私はそれを、恐怖心による抑止をまだ信じている日本の後進性とは理解しません。 
むしろ、死刑に反対して犯罪者の命であっても保護するのが絶対的命題である、と固定化してしまっている「俗化した」根拠の曖昧な人道主義の流れに組していない生きた判断だと評価しています。 
いみじくも、今回の判決が出るに当たっての重要なポイントとして、従来の判例主義の適用でいけば、「未成年である」ことと「被害者の数」ということからいうと無期懲役が妥当だったのでしょうが、「犯行の残忍性」と「反省の有無」という個別性をかんがみて最高裁でも死刑、との判決になりました。
これは、被害者遺族である本村洋さんのねばり強い主張もあって、日本社会が「いのちを大切にする」という命題に柔軟に対応した結果として評価出来ることだと考えます。

私は最近、
長年聖書を研究してこられた学者であり、東西宗教交流学会の会長も務められた八木誠一さんが、
イエスが「神の支配」と呼んだ、人間の内に働き、社会を統合させる力である「神のはたらき」とは、親鸞のいうところの「自然法爾」というものと酷似している、という主張を展開されている対談集を読み、感銘を受けました。
対談の相手である、臨済宗の僧侶である秋月龍眠氏、真宗大谷派の故人となられた坂東性純氏もそれに深い共感を示されていました。

ここで、私がこのことを持ち出したのは、
イエスの言行が「パリサイ人」といわれる「律法主義者」に対する激しいアンチテーゼに貫かれていて、それが今回の問題を考えるに当たって問題点をハッキリさせるものだと思ったからです。 
当時のユダヤ人社会では、人が「義」とされるのは、神との契約にもとずいて、その約束ごとである律法を守るが故に「義」とされる、でした。
が、イエスは「 ”人の子" は安息日の主人である。」(ルカ6章ー1)と言って律法を弟子ともども無視できる人でした。 
この事を法然、親鸞が当時の常識であった戒律や修業中心の仏教をひっくり返したこととなぞらえ理解し、さらに今日の問題においても、社会常識として定着している法律に対してでも、真の真宗門徒は逆らうことが出来るべきである、と理解する方々がおられる様です。
しかし、あえて今こそ律法や常識に逆らうことが出来る立場というものの根拠を問わねばならない…と思います。

私は、真宗大谷派の中の「死刑反対」の立場の人たちが文章において立場をあらわしたものとしては、ブック・レットの『死刑制度と私たち』しか知りませんが、
その中の反対派の立場の人達の主張のほとんどが、そこのところがハッキリしていない様に私は感じました。 

死刑を是とする常識は、残酷な復讐心や罪人の社会からの抹殺を目的としている…と決めつけ、それを前提として。「本願他力に立つわれわれはそれに反対するのだ。」というような論旨のようです。
しかし、このブック・レットの企画や出版された時点での常識と、裁判員制度が始まってからの常識はかなり変化してきている様に思われます。
さらに、今回の「光市母子殺害事件」の場合などには、
何が「律法主義」的な硬直で、何が具体的な状況に即して「命を大切にする」事なのかの立ち位置が逆転している様にさえ感じます。 
弁護団がとった法廷提出の期限も守らない裁判そのものの進展をさまたげる戦術や、差し戻しになった途端のそれまでは認めていた殺意を否認する供述に切り変えたことなどは、被告の「肉体の命」を守るという命題のためなら他のどんなことも許される、という硬直した「我執」ではないか…と私には思えました。 
私たちの様な「他力の仏教」を立場にもつ者(私は真宗門徒です)が、この弁護団のような立場の人たちと協力していくことは、
「内なるもよおし」として働く本願他力のもよおしに本当に相応していることになるのでしょうか?
もちろん、独裁国家における政治犯の処刑などに反対することは「他力のもよおし」に相応していると私も思います。 
が、この事件などのケースにおいて、ただ「未成年だから。」という判例主義や、あらゆる場合に人の「肉体の命」がアプリオリに優先すべきだと考える事は、
肉体の生存以上の命を考えられなくなった「世俗化した」人道主義の結果と考えるべきで、「他力のもよおし」に相応しているとはとても思えません。

今回、イエスの言葉を引用してみたくなった理由がそこにもあります。
イエスの言葉には
「だれでも、わたしについて来ようと思うものは、まず己を捨てて、自分の十字架を負い、それからわたしに従え。(十字架をさけてこの世の)命を救おうと思うものは(永遠の)命を失い、わたしと福音のために(この世の)命を失うものは、(永遠の)命を救うのだから。」(マルコ8章-34)
などの激しいものがあり、宗教者が「いのち」を論じる時に単なる肉体の生存のみを問題にすべきではない、という点がハッキリしていると思ったからです。 
故、金子大榮氏はいみじくも仏の本願の事を「生の依るところ、死の帰するところ」と表現されました。
仏の本願などというものは肉体的生存を超えて命を問題にしているものであって、
肉体的生存があらゆるものの出発点だと考えている前述の弁護団の様な人達の考え方とは、一線を画しているべきものだと思います。

それに加え、判決後のマスコミ会見でのご遺族、本村洋さんの発言
「死刑判決が出た事には、遺族として満足しています。しかし、うれしい、とか喜びとかそういう感情はまったくありません。」
「ー死刑を課すということに悩みつづけてきた13年間でした。」
「ーこれでよかったのか?絶対的正義など誰も定義できないと思います。」
…等の持つ真摯さに、私も含めた一般の方々は、単なる復讐心の満足や異分子を社会から抹殺した安心感とは別な死刑への想いを読み取っている…とも思います。

このような状況の中で、前述のブック・レットにあったような論拠だけでは、13年間悩まれた本村さんの「実存的」といってもいい思索には遠くおよばず、
これから裁判員という立場に立つ人達の個別の事件に対する実存的決断ともいうべきものをリードする言論を、大谷派が発信していることにはなっていないと考えます。

そして、何よりまず、
一人一人が「本願に呼応する。」ということは、単に親鸞の言葉(ある意味では過去のものである)を読み、それを援用して常識を論難する、という様な簡単なものではなく、イエスが「神の支配」と呼び、使徒達が「聖霊の働き」と呼んだものの様に、現実の状況に呼応して縦横無尽に働く「内なる働き」を自己の中に発見することであり、宗教的実存として生まれ変わらせていただくことなのだと思います。

社会に発言する前にその事が厳しく問われていないのならば、単に私たちは、やはり俗化した人道主義に流されているだけではないのだろうか?と考えます。
この観点から見直すなら浅田氏が弁護団の安田弁護士を「人間の暖かい体温など持ちあわせていない・・・」と表現したことも(いまだにこの表現が適切であるとは思いませんが) 別の観点から光をあてて理解することができるのではないか…とも考えます。

「本願他力」を宗とされている方には再度の熟考をお願いしたいと思います。