真宗の修行

真宗の修行

 

1999年3月  彼岸法話のためのメモ書き

 

今年(平成11年・1999年)の『真宗教団連合・法語カレンダー』、その表紙の言葉

「真宗の修行は 一生の聞法である」

この御言葉を下さったのは、正親含英(おおぎ・がんえい)という先生ですが、この正親先生という方は、「真宗の教えに育てられてきた人は、ただ真宗の本尊に向かってのみならず、路傍の石地蔵さんの前でも、古い観光寺院の薬師如来の前でも観音菩薩の前でも南無阿弥陀仏と掌を合わせているのでありましょう。神社に参っても、教会に行っても南無阿弥陀仏でありましょう。それを無智の故、門徒もの知らずだからと笑う人もありましょう。しかし、それはただ無智の故のみではありません。そこには合掌の智慧が、念仏の智慧がひめられてあります。」と仰せられて、一切諸仏がみな南無阿弥陀仏と私たちによびかけてくださっていることを教えてくださった、大切な先生です。

よくご法事などの席で、「お坊さんは修行が大変でしょう。どんな修行をするのですか?」と聞かれることがあります。そういう時私は、「真宗のお坊さんには修行はないのです。どういう修行もできない愚かな私たちが、自分の愚かさに心底気づかせていただく時に、如来のお救いをいただくのが真宗の道だからです」といった風にお答えしています。これはこれで間違ったことは言っていないつもりなのですが、どうも言い尽くせていないのでしょう。不思議な顔をされることが多いような気がします。

そこで、正親先生は、「真宗の修行は 一生の聞法である」と言っておられる。この言葉を手がかりとして、もう少しごいっしょに考えてみたい。

真宗には修行がない、と言った意味は、端的に言えば、「我がはからいによる修行がない」ということです。

これは『阿弥陀経』に、

「少なる善根、福徳の因縁によって、彼の国に生まるることを得べからず」というお言葉が出てくる。

これは、わかりやすい言葉に翻訳すれば、「我が心でよいと思われる道や、我がはからいによる修行によっては、お浄土に生まれることはできない」ということ。

少なる善根、福徳の因縁

(法話シリーズ『阿弥陀経のこころ』参照)

なぜ少善根福徳の因縁では生まれられないのか。

(理由・・浄土は如来の真実心に由って開かれてきた世界だから。)

少善根福徳の因縁とは何か?

三福修善(『観無量寿経』)

「彼の国に生まれんと欲わん者は,当に三福を修すべし。一つには」と言って

一、孝養父母、奉事師長、慈心不殺、修十善業。

●十善業───

不殺生

不偸盗

不邪淫

不妄語(いつも真実の言葉を用いる。たわごとを言わない。)

不両舌(両方の人に対して互いに相違することを言う。これによって両方の人の仲を裂く。不仲にする。不和にする。Aさんには、「Bさんがあなたの悪口言ってたわよ」と言い、Bさんには「Aさんは、あなたのことが嫌いなんですって」と言ったりする、ということだろう。)

不悪口(人を傷つけたり、嫌な気持ちにさせる言葉〔悪口をふくむ〕を言わない)

不綺語(人をわざとおどろかす。これみよがしな言葉。)

不貪(不貪欲)

不瞋恚

不邪見(因果の理を信じ、仏・法・僧の三宝を信ずる)

二、受持三帰、具足衆戒、不犯威儀。

三、発菩提心、深信因果、読誦大乗、勧進行者。                「かくのごときの三事を名づけて浄業とす。」(『観無量寿経』散善顕行縁)

われわれは、たとえこの三事(三福修善)を行っても、それを自力で行おうとする。自力というのは、「我がはからい」。

自力の心

「自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。」(「一念多念文意」五四一頁)

要するに、自分に愛着し、自分をほこる心。

われわれの心は、とても真実というわけにいかない。

自分の懐いている理念、要求、欲求に立っている。現実に対しては不満。それが日頃の心。いかに三福修善を行じようと、日頃の心に立っている。どこまでも自力の心によって立つ。いかに三事を行っても、自分に愛着し、自分をほこる心が出てくる。

それがわれわれの実際、事実。仮に浄土を求める心が生まれたとしても、自分の要求や不満や理念によって浄土を求める。われわれの要求や理念というものは、どこまでいっても自分中心のこころ。つまり不真実の心。

そういうわれわれの不真実の心で行うのだから、いかに一生懸命、夜昼を忘れて何かを勤め、実践したとしても、心が汚染されている。

それによって阿弥陀仏の浄土に生まれることはできない。それは不可能。

善導大師の文

「『経』(『観無量寿経』)に云く、「一者至誠心」(正宗分の第二〔散善〕上輩観・上品上生)。「至」は真なり。「誠」は実なり。一切衆生の身・口・意業の所修の解行、必ず真実心の中(うち)に作したまえるを須(もち)いることを明かさんと欲う。外(ほか)に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端「かんさももはし)にして、悪性侵(や)め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい心身を苦励して、日夜十二時、急に走(もと)め急に作して頭燃を灸(はらう)がごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中(うち)に作したまいしに由ってなり、と。」

(『教行信証』信巻───善導大師『観経疏』〔散善義〕の文の引用/『聖典』二一五頁)

人間の心が求める世界

「私どもの日頃の心が求めるのは浄土ではなくて天上界。仮に浄土という言葉が使われても、天上界。」(宗正元師)

三界

欲界 色界 無色界 

天上界といっても、欲界の中にある天上界が六つある。六欲天といわれる。

その一番下。地上界からいえば遙か上方にあるが、天上界でいえば一番下の世界が四王天。われわれ人間が求める世界の中いちばんポピュラーな世界。

1、四王天。2、三十三天(トウ──りっしんべんに刀──利天ともいう。この天の主が帝釈天)。3、夜摩天。4、兜率天。5、化楽天。6、他化自在天(魔天ともいう)。四王とは、持国、増長、多聞、広目の諸天王。

持国天───政治力の力で安定した世界。

増長天───経済の繁栄した世界。

多聞天───情報・文化の進んだ世界。

広目天───倫理・道徳に守られた世界。悪を制する国。どんな悪をも見逃さない。

「持国天までいかなくても、日本もかなり経済繁栄を目指している」(宗師)

また目指してきた。高度成長期。バブル経済。

アメリカという国は、広目天のような社会を目指す動きが強い。裁判社会。

セクシュアル・ハラスメント。最近、小学生の男の子が(一年生?)隣の女の子にキスをして有罪になった(一日の停学処分?)。それほど神経がとがってしまう。天上といっても人間の心の延長。六欲天というのは、天上といっても欲界の中にある。つまり、人間の欲望が満たされる世界。 

色界

色界は、欲界を越えている。欲望はもうないが、形がある。譬えれば、音楽、絵画、文学、演劇などの芸術の世界。

無色界

瞑想の世界。もはや形をもたない、真理そのものを瞑想する。

最近は、欲界の天上界ではあきたらずに、色界や無色界を求めるような新宗教がはやっている。瞑想を看板に掲げる宗教。欲界では満たされない、という時代の心をあらわしているのだろう。それはそれで大事なこと。しかし、結局、欲界を越えた世界を求めるといっても、人間の日頃の心で求めている。『法の華』、研修道場とかに缶詰にして、瞑想の真似事のようなこともするらしいが、あれは欲界そのもの。もうすこし真剣に瞑想を求めるというような集団もある。瞑想を求めるという意味では、『オウム』などはかなり徹底したものがあった。しかし人間の心が破られないままに、どこまでも人間の心で求めていく。人間の不真実の心で求めるから、結局歪んだ世界になっていく。欲望も失われていない。権力の欲望、財欲、性欲、アサハラ本人の欲望はどんどん肥大していった。毒雑りの世界。その行き着いた先がサリンだった。『オウム』というのは、人間の自力の心が行き着く、ある意味の究極を顕している。毒雑りという意味の。応に行き着くところまで毒雑りの行を行じてしまった。迷いこんでしまった。

聞法は、「自力の執心」を破る。

この、自分に愛着し、自分をほこる心をもって、拠り所とする。

自力本願と言い、自分こそが頼りと言い、他人をあてにしてはならないと言い、自由と言い、努力と言っても。我執を拠り所とする、その心から離れられない。

聞法ということは、われらの闇が闇として、正しく知らしめられていく歩み。

聞・思・修というが、真宗に修がないのではない。自力を励ます修ではなく、自力分別の心、自力の執心が照らしだされ、えぐり出されるという修。聞法によって、現実生活が、そのような修たらしめられる。現実生活は、聞・思が験される場だろう。聞・思がなければ、現実生活は修とならない。日ごろの心で活々と(あくせく)するばかりである。聞・思によって、現実が修となる。

聞法は、この現実生活を修たらしめてくださる、修行の場としてくださる手がかり、道しるべ。この聞・思を支え、導いてくださる方々がよき師・よき友なのだろう。念仏に出遇った者がたまわるのは、そういう歩み。

よき師・よき友に、誘われ、手を引かれ、導かれていく。それが聞法。教えを聞く、ということ。道しるべをいただくということ。

その道しるべをいただいて、現実生活の中に戻っていく。そうすると、その現実の日常生活が、修行の場となる。自力を執心が破られていく、という意味の修行の場。

現実のさまざまな出来事に出会って、不幸や病気や不仲や、あるいは幸せな出来事でもいい、幸運な出来事、嬉しいこと、悲しいこと、そういうさまざまな現実をとおして、そこに横たわりうごめいている、我が心、自力の執心────いかに自分に愛着し、自分をほこっているか───そういう我が心の事実を照らしだされ、気づかされていくこと。

聞法という導きがなければ、気がつけない。自分のこころでは気がつけない。

現実生活が仏道の場となる 

現実生活というのは、自力を励まさなければ成り立たない世界。生きていけない世界。努力を必要とする。毎日毎日のしごと。子育て。家庭を守る。掃除・洗濯・炊事。なまけていたら片づかない。辛くても、やらなければならない。難儀な世界。

しかし、自力を励ます、というだけでは道にならない。どこまでも自分に執着し、自力に縛られていく。迷いの世界。聞法がなければ、現実生活は、ただ迷いの世界です。どんなに立派な地位を得ようと、財産を得ようと、あるいはどんなに立派な学者さんになって、立派な学問の業績をたてようと、たとえノーベル賞をもらうような業績をたてようと。

あるいは三福修善というような善なる行いを行じたとしても。

その現実生活が、仏道修行の場たらしめられる。

自力を励まさなければ生きていけない、現実の日常の生活を、まさに生きていく、そのただ中において、仏の声を聞く。仏の光に照らされて、我が自力の執心がえぐり出されていく。

聞法といい、教えといっても、自力の執心をえぐりだしてくださるような教えです。そういう教えに出遇えなければ、現実は道にならない。ということは救われる道がない、ということ。

そして逆にいえば、その教えに出会えば、あらゆる人に道がひらかれてくる。

そういう教えを、無上正真道という。

念仏は無上正真道。念仏に出遇えば、あらゆる人に道がひらかれる。それは、人生が修行の場たらしめられるから。お坊さんだけが修行をするというんじゃない。そういう道は、無上正真道ではない。

どんな人も人生をもっている。ひとりひとり掛け替えのない人生を生きている。その人生そのものが、修行の道になる。

修行と言えば、現実生活。聞法は修行というより、道しるべをいただくこと。だから無理して聞かにゃならんというようなものではない。本当に、聞法会にでかけて、道しるべをいただけた、ということになったら、もう自ずから聞かずにおれん、ということになる。他力

自力の執心をえぐりだしてくださるような教え、力、智慧の光、それを他力という。

他力の六義

五木寛之さんの『他力』

それにしても煩悩が一向になくならないのは、煩悩の根がいかに深いかと、感嘆させられる。先師の教えにふれれば、煩悩はなくなるものではない。ただ転ぜられるということがある。自力の執心が破られれば、煩悩はやがて転ぜられる。

そういう教えに出遇えば、煩悩は恐れる必要がない。別に否定しなくてもいい。煩悩を断ぜずして、ということだろう。何か自由になる気がする。所知障(自力分別)が課題となる時の、それが利益というものではないだろうか。

顧みれば念仏の教えに出遇ったということは、別に観察ということを言わずに、所知障を課題としていただくことではないだろうか。自力分別の無効を知らされるという相(すがた)で、所知障が課題たらしめられる。本願力の回向をちょうだいして、どこまでも破られぬ自力の分別が課題となる。自力の分別が課題になると、そこにおのずから煩悩が自覚されてくる。なくならぬ煩悩がいよいよはっきりと見出されてくる。面白いことだ。それは仏教が、分別と言い、あるいは所知障と言っても、たえず煩悩への眼差しを見失わないからではないか。

所知障が課題になるとどういうことが起きるかというと、マナ識の我執が見えてくるのではないかと思う。本当に根深い。無くすことなどとうてい無理という我執である。いわゆる小乗で課題とされる人執(我執)は、せいぜい第六意識の我執、表層の自我意識ではないか。マナ識の我執は、所知障が課題とならなければ気づくことさえできない我執である。所知障の根拠、所知障が生まれてくる源がマナ識の我執ではないかと思う。所知障は煩悩障の依り処になるといっていいが、所知障の基礎はマナ識の我執だろう。第七マナ識の四煩悩───我癡・我見・我慢・我愛───が、所知障の依り処となっている。だから煩悩障といっても、第六意識の煩悩をいうのだろう。所知障の基礎は、かえって第七マナ識の煩悩ではないかと思う。無明だろう。無明に縁って行を起こす。所知障もまた行である。

迷ったり、落ち込んだりするのは、煩悩の所為であって仕方がない。そういうことがなくなる訳ではない。しかしなくならぬ煩悩の根底がはっきりすれば、魂はかえって明るい。貪愛瞋憎の雲はいつも覆っているが、闇が闇として知られれば、闇に明かりが灯る。

『観無量寿経』では三福修善を勧めている。表現された言葉では。しかしそこは、人間の自力の心を気づかしめん、とする経典のこころがある。

「汝いま知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり。」(「散善顕行縁」結語)

「諸仏の業」です。人間の業、行いではない。いかに三福修善の業を行い、励んだとしても、人間の自力の心が破られない限り、真実ではない、ということ。

真宗念仏の道は、この自力の執心が破られていく歩み。

執持名号

名号を執持するならば、何故生まれられるのか。

如来の至心が回向されるから。

信心が回向される。信心とは何か、ということを親鸞聖人は、

「すなわち利他回向の至心をもって、信楽の体とするなり。しかるに無始より已来、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもって無上功徳、値遇しがたく、最勝の浄信、獲得しがたし。一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸(はら)うがごとくすれども、すべて「雑毒・雑修の善」と名づく。また「虚仮・諂偽の行」と名づく。「真実の業」と名づけざるなり。この虚仮・雑毒の善をもって、無量光明土に生まれんと欲する、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しく如来、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念・一刹那も疑蓋雑わることなきに由ってなり。この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに、必ず報土の正定の因と成る。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもって諸有海に回施したまえり。これを「利他真実の信心」と名づく。」

(『教行信証』〔信巻〕/『真宗聖典』二二八頁)

つまり信心とは、われわれの心ではなくて、如来のまことの心なんだ。如来の真実の心をいただくことを、本当の信心と言うんだと。

「聖人一流のご勧化のおもむきは、信心をもって本とせられそうろう」

われわれの自力の心が破られる。自分の自力の心に気づかされるという形で、自力が破られる。しかしそれはどこまでいっても自力がなくなるということではない。むしろどこまでも人間の心の至らなさに気づかされる。つまり照らされる。

それが信心。照らされてうなずく。うなずかしめられる。

まずわが身の事実。我らが世界の現実。人間の身とはどういう身であるのか。人間の世界とはどういう世界であるのか。そして人間の心とは、いったいどんな心であるのか。

まずその事実が照らされなければ、仏の心を頂戴するなどということは有り得ない。仏の教えを聞かねば救われぬ身だと気づかなければ、仏の教えを聞こうなどとはしない。 照らされ続けていく歩み。

わが身の事実に気づかしめられる。照らされる。そこから、照らされていく歩みが始まる。仏の教えを聞くという生活が始まれば、そこから仏の光に照らされつづけていくという人生の歩みが始まる。

本当のご利益。

そして、仏の光に照らされ続けていく歩みの中で、わが身の奥底から、わが命の真底から「念仏申さん」と思い立つ心のおこる時、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり、と。

如来のお心を、まさしく頂戴するその時。

人間の本当の救い。