他力ということ

他力ということ                     99.11.27更新

  他力」という、真宗の基本概念について、お教えをいただこうと思います。

他力の六義(宗正元先生のご法話より)

真宗大谷派の初代講師(大谷派には、講師・次講・擬講・学士の四段階の学位がある)である恵空師が、他力の意義が混乱することを心配して、「他力の六義」ということを明らかにして、教えて下さっている。(『諸仏慈悲集』)。

一、内熏密益

私どもの内に染み付いている神秘的なはたらき。

今日のことばでは、宇宙の大生命。霊力。精霊。

「いろいろなものに生かされているのだ」と。 

生かされて、というが、どういう風に、という内容によっていろいろ出てくる。

弥陀の本願は、私どもを無我の主体として確立する。

二、世間因果

縁の力を他力と考える。縁によって結ばれ、縁によって別れる。その縁の方を他力と。

植物の芽が出るには、太陽の光とか土とかが必要。(水とか気温とかも)

その縁が無ければ、種があっても芽は出ない、と。

 

私に案ずるに、つぎのようなことも「世間因果」といえるのではないだろうか。

「士は己を知る者のために死し、女子はおのれを喜ぶ者のために装う」

という。(中国の古典に出る言葉)

他力の身近な、素朴な現れ。

食事を作るのも、自分ひとりだったら、残り物や適当なもので間に合わせる。でも「おいしい、おいしい」といって喜んでくれる人がいれば、心をこめて作る。

お蔭さま、ということ。

そういう意味の「他者」の力。

私がお話をする。

皆さんがおられる。嫌でも勉強する。みっともない話はできないとか、恥をかきたくない、褒められたい、そういう思いもある。汚れた煩悩。しかしそういうはからいを越えて、事実、学ばせてくださる。

学べば、そういう思いが汚れた煩悩だということを知らされる。おのずと我が身が照らされる。

仏法を学ぶというのは、我が身が照らされることだろう。

おのずから照らされていく。自分の思いを超えて。

また自分の思いを超えて我が身が照らされないようなら、仏法を学んでいることにはならない。      

聞いてくださる方が、学ばせてくださる。それも「他者」の力。他力。

三、依教起行

人間は、ほっておいても育つというものではない。(*私に───親はなくても育つかも知れないが、育ててくれる誰かがいなければ赤ん坊は生きられない。)そういうところが動物と違う。動物は、生まれて直ぐ本能がはたらく。(馬は生まれて直ぐ立ち上がる。鳥などは、雛の間は親が餌を運んでくれるが、巣立ちは人間よりずっと早い。人間だけは、一人前になるのにえらく時間がかかる。)人間は、育てられる生きもの。手を取り足を取って。

朝、顔を洗うことも、教えられてそうなる。(*私に聞思するに───教えてくださる力を他力と考えるのだろう。)

食べ方も、教えられなかったら、どんな食べ方をするか。

何を学んだか、学習の違いによって、衣食住にわたって違いが出てくる。

人間は文化的な環境の中に生まれ出てくるから。

他の生きものは、多少学んだり習ったりすることはあるが、ほとんど本能的。本能で生きていける。

人間はどうしても文化を学ばなければならない。人間は一人では生きられない。それで、他力のお世話にならねばならん、と。

四、慈悲善根

親、先生、先輩のお慈悲。いつくしみを受ける。

そういう風に暮らしている。その慈悲善根を他力という。

五、諸仏本願

現代人はあまり口にしないが、観音さんやお地蔵さんがちゃんと祀られている。

東京タワーの隣の寺(増上寺だろう)、すごい数のお地蔵さん。

仏の加護を受けずにおれない。

たとえば私たちがバイブル(聖書)を読んでいなくても、広い意味で感化を受けている。別に名乗っていなくとも、周りにクリスチャンの方がいる。たとえば三浦綾子さん(遠藤周作さん、曽野綾子さん、高橋たか子さん、小川国夫さんなどなど)のような人が作品を書くと、そういう作品なりエッセイなりに感化を受けたりする。そういう諸々の宗教や思想が長い歴史をもって、われわれに影響を与えている。

こうした五つの理解に対して、恵空師は第六に、

六、弥陀別益

という本義をあげている。上記の五つでは尽くせない、弥陀の本願のみがあらわしている意義。

転成。屍骸を宿さず、ということ。

本当に生かされる。

根本の意義をあらわしてくるような他力が、弥陀の本願において明らかにされる。

われわれが、いのちを見失っている。一番大事なものを失っている。

人間にとって一番大事なものは何か。

念仏のほかなし。つまり、無我の主体を勝ち取る。               
親鸞聖人が、学んだり習わなくなったりすることを屍骸とおっしゃられている。生ける屍骸。

屍骸を生き返らせる。それが本願他力。主体を確立する方は、転成と言っている。

『真宗聖典』東本願寺版・198頁。

理性───凡聖雑修(凡聖所修の雑修・雑善)。(小乗の)さとりを開いた人。二乗雑善の中下の屍骸。

天上界を求める人。人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸。

欲望───逆謗闡提。

理性でも、宗教的理性、日常的な理性とあるが、宗教的といっても我執がある。

宗教的我。たとえば、カソリックとプロテスタント。宗教的な面では大きな違いがある。もの凄いテロをくりかえしている。アイルランドだけじゃない。

中近東にもすさまじい宗教対立がある。どうしてあんなに争わなければならないかと思うくらい。

理性といっても面倒なもの。無我にならない。

無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水と成る。

叩き壊すということじゃない。どこまでも転ずる。


 

安田理深先生講話  『唯識三十頌聴記』巻六/福井相応学舎版 より

「他力という概念は曇鸞から言いだした概念」(10頁)

他力は「分別の他」という意味

「他力というても、自然という意味なんです。キリスト教のように、アナザー(他者)という意味じゃないんだ。分別の他という意味なんだ」(11頁)

「他というとanother という意味ですから、another ということになると、へたすると仏教でなくなる。他に依るということを捨てさせるのが仏教です。他力々々ということをあまり固執すると、仏教じゃなく、外道になってしまう。その危険がある。お他力中毒というのがあってね。」(11頁)

「曽我先生はどう言っておられるかというと、他力ということは、これは俗語やと、俗語で言うんだと。他力ということは曇鸞大師が言うのであって、浄土論の教学を説くのに、他力という概念で……浄土論自身が言っとるわけじゃない、浄土論は利他と言っとるんだと。利他ということをはっきりさせる為に、他力という言葉を使ったんだと。だから正しい言い方をすれば利他というべきだと。他力は俗語だと。」(11頁)

「他力の他は仏を表す。利他の他は衆生を表す。大分ちがうわね。利他の他は衆生やね、如来から言った言葉や。他力は人間から言ったことばでしょう。そういうことを曽我先生だけが言われるんです、ほかの人は言わんけど。ほかの人は「他力」を聖語だと思っとるんでしょう、聖も俗もあまり自覚せんのです。」(11頁)

「自利利他というのは、仏教学の根本概念ですね、ちゃんと伝統がある。例えてみたら、どうして五念門が出来ているかといえば、自利利他の順序や。第五廻向門というのが利他でしょう。前四は自利やね。二十九種荘厳功徳というものがある。国土十七種の十六までは自利なんだ。第十七種は一切所求満足功徳大宝海だ。一切所求で、一切他の衆生の求めるものを満足せしめるという、だから利他でしょう。」(12頁)

「仏荘厳でも、初めの七種は仏の自利の徳です。第八の不虚作住持功徳というのは利他ですね。浄土であろうが、仏であろうが、菩薩行であろうが、なんでも全部自利利他と、自利利他円満ということが一貫しとるんですから、これは仏教の堂々たる根本概念です。他力というようなことは使っていない。」(12頁)

「これはどうして他力ということを言い出したかというと、不可思議力からだろうと思うんですがね。浄土論に不可思議力ということがある。曇鸞大師は不可思議光如来という。尽十方無碍光のほかに、不可思議力というものが、国土十七種荘厳の中にあるんですわ。それで五種の不思議ということを言いだしてきた。曇鸞大師は不可思議力ということに注意したんでしょう。譬が阿修羅の琴の譬、阿修羅はいってみれば業道自然。つまり業道自然を表すことは、自然なんだけど。阿修羅という意味は、宿業で阿修羅の意味をいっとるんですから、業道自然を表す概念かそれを譬として願力自然を表す。願力自然を表す。願力自然を表すのに、業道自然をもってすると。こういうのでしょう、曇鸞大師はね。まあ自利利他といえば誤解がないと思うんですね。」(12頁)