高明寺レポート
面
面
我というものは、何かあらゆる経験を統一しとるもんでしょう、
もっとるもんでしょう。
経験というのは我がする経験なんだ。
ところがね、我が見たり、聞いたりするという、我から生まれて
くるもの、我に於いて生まれてくるものが経験ですけどね。
ところが経験するというとね、その経験が我を生んでくる。
我が経験を生むにもかかわらずね。私から生まれた経験が
私を生んでくるね。
あんた方でもそうですわ。大学出た頃には、その中からどんな
えらい者が出てくるかわからんね。ところが何十年か学校の先生を
やっとると、如何にも起居動作すべてが先生らしくなっとる。
又ながい間坊さんやっとると、初めから坊主になるように生まれて
きとるような顔つきから、起居動作までそうなってくる。
顔つきでもなんでも、それは経験によって作られたんだ。
私は何であるかということを語るのは、私に成るまでの私の作った
経験が、私が何であるかということを語ってくれる。
私がこうなったのはどうかというと、神が作ったんじゃない。
こう成るように私が経験してきた経験の蓄積の結果でしょう。
この顔もね、一人ひとりちがうというのも、そこだ。それが隠せんという
のが面白いわね。顔に出とるんだから。
何時も云うけどね、知らんからのんきに考えとるけどね、
実は自己の履歴書を掲げて歩いとるようなもんだ。
面というものはそういうもんだ。
─ ────安田理深師
『唯識三十頌聴記』(福井相応学舎)より